自分史、ITビジネス篇
2008年02月24日
■ITビジネス篇のはじめに
私の職業分野はいくつか、ある。
1985年から1995年までが、イベント、舞台の企画制作業。
1996年から2003年までが、IT系ベンチャー、インターネット関連業。
2004年から現在まで・・広告・販促・マーケティング関連業。
2006年から現在、今後・・インターネット広告、プロモーション、Webマーケティング業。
それぞれ、近いようで遠い、分かり合えない業種でもある。
それぞれの時代に私と出会った皆様は、
今でも当時のイメージが「こびりついている」らしい。
「イベント屋さん」
「舞台監督」
「ITベンチャー起業家」
「ケータイのことならなんでも知っている」
「Webの専門家」
「官公庁催事、事業の専門家」
「販促イベント屋さん」
「広告会社のプランナー、プロデューサー」
どれも、それ単独ではないし。
すべての業種・分野の、「完全なプロフェッショナル」でもないし。
■1995年、ITビジネス篇の端緒、はじまる。
1994年の暮れ頃から、The Boomの「風になりたい」のプロモ映像がテレビで繰り返し流され、スマッシュヒットをしていた冬。
1995年。
1月、阪神大震災。
なんか、世の中、変。
早朝に地震で目覚めて、テレビをずっと見入る。
「え?どうして火事が収まらないの?」
「映画のように飛行機やヘリコプターがガンガン来て、
どんどん消火されるのではないの?」
「ええ!なんで、深夜・早朝の黒い画面の字幕で、
死者の数だけが、カチャカチャ増えるの??????」
既成概念が、ガタガタと崩れ落ちる。
3月、プロ野球・野茂が年俸が下がり、マイナーからのスタートでもその道を選び、
大リーグに渡る。
5月頃、仏頂面、無表情で有名だった野茂が、
アメリカの5月の太陽に照らされたマイナーの球場芝生の上で、
にこやかにストレッチしている姿をテレビで見て、衝撃をうける。
年俸が激減し、まだメジャーにも上がれていない「日本で一流だった男」が、
自分の憧れであったメジャーリーグにチャレンジしている、
そのことだけ「男の満足感」が身体に溢れている。
そんなふうに見えて。
8月、Windows95英語版発売。
ニュースや解説が毎日喧伝される。
どうやら、インターネットというものを使えば、
コミュニケーションの幅が無限大に広がるらしい。
12年携わっていたイベントの企画制作という仕事から、
もっともっと広がりのある、「何か」をしたくて、
気持ちにあせりが出て来ていた時期だった。
「風になりたい」と「阪神大震災」と「野茂」。
この3つの事象が私の心を動かして、
1995年の秋、12年勤め、育ててくれた会社に退職の意思を伝えた。
■1996年、フリーからITビジネスへ
この年の1月に退職。37歳。
当初はフリーのディレクターとして、イベントの企画制作や、
「ホームページをつくる」という仕事をするつもりだった。
ところが、退職の挨拶に行った「とある恩人」に、
『男というものは40近くもなってひとりで自分の出来ることだけやるのは、いかん。』
『会社をつくって、自分ひとりの力を3倍、3倍にするのが、男ぞ』
と、言われて。
(私)「ええ、それはわかりますが、私は仕事はしますが、お金もないし、
会社をつくる作業などに魅力を感じないのですが・・」
と、応えるも、なお、畳み掛けるように言ってくださる。
『ある企業のオーナーが、そういうソフトの会社をつくりたがっている。会うか?』
(私)「あ、はい。フリーになったばかりですから、仕事をいただかないといけませんから、
誰にでも会います」
と、いうきっかけから話はトントン拍子に進み、
1996年の1月に前職を退職し、
地元企業の資本参加をいただき、
6月には、いわゆる「ITベンチャー」として新しい会社が設立されていた。
1996年6月13日設立
奇しくも、私の生年月日と同じ月、日の登記となった。
1996年~97年 FMマリノ780開局総合プロデュース
コミュニティFM局の開局の仕事をしないか、と言われて、「面白いですね、やります」。
1997年~98年 香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業採択、推進
香川県の高度情報化に関する実験事業「香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業」に申請した5つの実験計画のうち4つが採用された。
「バーチャル放送局」
「ドクターネット」
「スクールネット」
「地域情報発信事業」の
コンテンツ企画・制作・運営に関するプロデュース作業にあたる。
「バーチャル放送局・テレラジネットせとないかい」では、
高校総体陸上競技のインターネット速報・中継を当時の遅い回線で敢行。
高校生写真部をネットワークして、デジカメ撮影⇒ノートPC+携帯電話通信カードで、
競技会場から即時レポートを実施。当時、月間30万PVを稼ぐ。
1998年~2000年 ポケットベル情報サービス事務局を受託
地元通信キャリアの仕事で、地方新聞社のニュースのテキスト情報を50文字編集・配信。
また、ユーザーとのインタラクティブ企画も推進する。
ポケベルユーザ減少により2000年その役を終える。
1999年~01年 地元通信キャリアのPC版、iモード版のホームページ運営事務局受託
リニューアルの企画・コンペにより獲得。
企画・制作・サーバ構築納品、ネットワーク管理、サイト運営更新事務局を受託。
2002年、通信キャリアのグループ会社に全面移行。
1999年~02年 「メール利用促進」メールクラブ運営受託
1999年2月22日、iモード発売される。
当時、これほどまでに普及すると見られなかった「携帯メール利用」について、
その普及促進・利用機会提供を図るためのメール会員制クラブを企画制作・運営。
クイズ、アンケートなどすべてのコンテンツが
メールのやりとりだけで可能なシステムを構築。
メールの爆発的な普及で、2002年、その役目を終えた。
2002年~03年 地元・中堅のカタログ通販のECサイト運営開始
販カタログのWebサイトの企画コンペに勝利。
ECサイトのPC版、携帯3キャリアのシステム再構築・コンテンツ全面リニューアルの総合プロデュースを行う。
1年で契約終了。
2002年~ 地元通信キャリアの携帯公式サイトの企画・運営
地元通信キャリアのキャンペーン連動 iモードサイト。
iモードの活用のきっかけづくり、利用促進のためのサイトとして企画・構築・運営スタート。
アクセス数の増大で年間運営が決まるなど、
コンテンツ&プロモーションの成功によるサイト企画・運営の続行という好事例となる。
2002~03年 携帯アプリケーションコンテスト企画運営受託
全国の携帯アプリ技術者に向けた、地元通信キャリアのアプリコンテストの企画・運営事務局・審査、総合プロデュース。
2004~2005年 香川県情報通信交流館の開館準備プロジェクトメンバー
サンポート高松に開館する新しい事業の計画実行段階からプロジェクトに招かれ、
コンテンツプロデューサーの立場で事業推進に携わる。
Webサイトの企画制作を行なう。
2005~6年 IT関連業務から離れる
自分で起業した会社を株主と若手に委ねでフリーとなり、その後、地元大手広告会社に入社。
しばらく「Web」に追い掛け回される生活から開放されたが、
調べて行く内に、広告、宣伝、マーケティング業界でも、インターネットの重要性を改めて認識。
2006~7年 社内にインターネット事業担当部門をつくる
結果的に、時代の波に誘われて、仕事のうち半分程度が、再びインターネット関連業務となる。
2007年の3月 地域ブログを香川に起こしたいという事業の協力依頼を受け、携わる。
2008年~ 社外に設立される、インターネット関連会社の起業推進
さらに結果的に、時代の波に誘われて・・・・
2008年4月1日設立されるインターネット関連会社の設立準備に携わる。
今後、仕事量のうち90%くらいは、インターネット関連なると思われる。。。
自分史、ITビジネス篇。現在まで。
私の職業分野はいくつか、ある。
1985年から1995年までが、イベント、舞台の企画制作業。
1996年から2003年までが、IT系ベンチャー、インターネット関連業。
2004年から現在まで・・広告・販促・マーケティング関連業。
2006年から現在、今後・・インターネット広告、プロモーション、Webマーケティング業。
それぞれ、近いようで遠い、分かり合えない業種でもある。
それぞれの時代に私と出会った皆様は、
今でも当時のイメージが「こびりついている」らしい。
「イベント屋さん」
「舞台監督」
「ITベンチャー起業家」
「ケータイのことならなんでも知っている」
「Webの専門家」
「官公庁催事、事業の専門家」
「販促イベント屋さん」
「広告会社のプランナー、プロデューサー」
どれも、それ単独ではないし。
すべての業種・分野の、「完全なプロフェッショナル」でもないし。
■1995年、ITビジネス篇の端緒、はじまる。
1994年の暮れ頃から、The Boomの「風になりたい」のプロモ映像がテレビで繰り返し流され、スマッシュヒットをしていた冬。
1995年。
1月、阪神大震災。
なんか、世の中、変。
早朝に地震で目覚めて、テレビをずっと見入る。
「え?どうして火事が収まらないの?」
「映画のように飛行機やヘリコプターがガンガン来て、
どんどん消火されるのではないの?」
「ええ!なんで、深夜・早朝の黒い画面の字幕で、
死者の数だけが、カチャカチャ増えるの??????」
既成概念が、ガタガタと崩れ落ちる。
3月、プロ野球・野茂が年俸が下がり、マイナーからのスタートでもその道を選び、
大リーグに渡る。
5月頃、仏頂面、無表情で有名だった野茂が、
アメリカの5月の太陽に照らされたマイナーの球場芝生の上で、
にこやかにストレッチしている姿をテレビで見て、衝撃をうける。
年俸が激減し、まだメジャーにも上がれていない「日本で一流だった男」が、
自分の憧れであったメジャーリーグにチャレンジしている、
そのことだけ「男の満足感」が身体に溢れている。
そんなふうに見えて。
8月、Windows95英語版発売。
ニュースや解説が毎日喧伝される。
どうやら、インターネットというものを使えば、
コミュニケーションの幅が無限大に広がるらしい。
12年携わっていたイベントの企画制作という仕事から、
もっともっと広がりのある、「何か」をしたくて、
気持ちにあせりが出て来ていた時期だった。
「風になりたい」と「阪神大震災」と「野茂」。
この3つの事象が私の心を動かして、
1995年の秋、12年勤め、育ててくれた会社に退職の意思を伝えた。
■1996年、フリーからITビジネスへ
この年の1月に退職。37歳。
当初はフリーのディレクターとして、イベントの企画制作や、
「ホームページをつくる」という仕事をするつもりだった。
ところが、退職の挨拶に行った「とある恩人」に、
『男というものは40近くもなってひとりで自分の出来ることだけやるのは、いかん。』
『会社をつくって、自分ひとりの力を3倍、3倍にするのが、男ぞ』
と、言われて。
(私)「ええ、それはわかりますが、私は仕事はしますが、お金もないし、
会社をつくる作業などに魅力を感じないのですが・・」
と、応えるも、なお、畳み掛けるように言ってくださる。
『ある企業のオーナーが、そういうソフトの会社をつくりたがっている。会うか?』
(私)「あ、はい。フリーになったばかりですから、仕事をいただかないといけませんから、
誰にでも会います」
と、いうきっかけから話はトントン拍子に進み、
1996年の1月に前職を退職し、
地元企業の資本参加をいただき、
6月には、いわゆる「ITベンチャー」として新しい会社が設立されていた。
1996年6月13日設立
奇しくも、私の生年月日と同じ月、日の登記となった。
1996年~97年 FMマリノ780開局総合プロデュース
コミュニティFM局の開局の仕事をしないか、と言われて、「面白いですね、やります」。
1997年~98年 香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業採択、推進
香川県の高度情報化に関する実験事業「香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業」に申請した5つの実験計画のうち4つが採用された。
「バーチャル放送局」
「ドクターネット」
「スクールネット」
「地域情報発信事業」の
コンテンツ企画・制作・運営に関するプロデュース作業にあたる。
「バーチャル放送局・テレラジネットせとないかい」では、
高校総体陸上競技のインターネット速報・中継を当時の遅い回線で敢行。
高校生写真部をネットワークして、デジカメ撮影⇒ノートPC+携帯電話通信カードで、
競技会場から即時レポートを実施。当時、月間30万PVを稼ぐ。
1998年~2000年 ポケットベル情報サービス事務局を受託
地元通信キャリアの仕事で、地方新聞社のニュースのテキスト情報を50文字編集・配信。
また、ユーザーとのインタラクティブ企画も推進する。
ポケベルユーザ減少により2000年その役を終える。
1999年~01年 地元通信キャリアのPC版、iモード版のホームページ運営事務局受託
リニューアルの企画・コンペにより獲得。
企画・制作・サーバ構築納品、ネットワーク管理、サイト運営更新事務局を受託。
2002年、通信キャリアのグループ会社に全面移行。
1999年~02年 「メール利用促進」メールクラブ運営受託
1999年2月22日、iモード発売される。
当時、これほどまでに普及すると見られなかった「携帯メール利用」について、
その普及促進・利用機会提供を図るためのメール会員制クラブを企画制作・運営。
クイズ、アンケートなどすべてのコンテンツが
メールのやりとりだけで可能なシステムを構築。
メールの爆発的な普及で、2002年、その役目を終えた。
2002年~03年 地元・中堅のカタログ通販のECサイト運営開始
販カタログのWebサイトの企画コンペに勝利。
ECサイトのPC版、携帯3キャリアのシステム再構築・コンテンツ全面リニューアルの総合プロデュースを行う。
1年で契約終了。
2002年~ 地元通信キャリアの携帯公式サイトの企画・運営
地元通信キャリアのキャンペーン連動 iモードサイト。
iモードの活用のきっかけづくり、利用促進のためのサイトとして企画・構築・運営スタート。
アクセス数の増大で年間運営が決まるなど、
コンテンツ&プロモーションの成功によるサイト企画・運営の続行という好事例となる。
2002~03年 携帯アプリケーションコンテスト企画運営受託
全国の携帯アプリ技術者に向けた、地元通信キャリアのアプリコンテストの企画・運営事務局・審査、総合プロデュース。
2004~2005年 香川県情報通信交流館の開館準備プロジェクトメンバー
サンポート高松に開館する新しい事業の計画実行段階からプロジェクトに招かれ、
コンテンツプロデューサーの立場で事業推進に携わる。
Webサイトの企画制作を行なう。
2005~6年 IT関連業務から離れる
自分で起業した会社を株主と若手に委ねでフリーとなり、その後、地元大手広告会社に入社。
しばらく「Web」に追い掛け回される生活から開放されたが、
調べて行く内に、広告、宣伝、マーケティング業界でも、インターネットの重要性を改めて認識。
2006~7年 社内にインターネット事業担当部門をつくる
結果的に、時代の波に誘われて、仕事のうち半分程度が、再びインターネット関連業務となる。
2007年の3月 地域ブログを香川に起こしたいという事業の協力依頼を受け、携わる。
2008年~ 社外に設立される、インターネット関連会社の起業推進
さらに結果的に、時代の波に誘われて・・・・
2008年4月1日設立されるインターネット関連会社の設立準備に携わる。
今後、仕事量のうち90%くらいは、インターネット関連なると思われる。。。
自分史、ITビジネス篇。現在まで。
Posted by rookie1957@ストリート at 16:17│Comments(1)
この記事へのコメント
1999~02
ちゃんとあって良かった。忘れられなくて、嬉しかったです(笑)
250字しか書けないメールでしたねぇ・・・ しんじられんわ。
ちゃんとあって良かった。忘れられなくて、嬉しかったです(笑)
250字しか書けないメールでしたねぇ・・・ しんじられんわ。
Posted by るいまま at 2008年03月04日 04:37