自分史・・年譜/二十歳以降
2008年01月28日
◇1979年、四国、さぬきに上陸
私は多分、1979年(昭和54年)、東京のアパートを引き払い、
2才上の兄と2tトラックをレンタカーで借りて荷物満載のトラックを運転し、
無謀にも東京から車で高松に着いたのを覚えている。
ジャンボフェリーから降りて、
11号線を通り、
今の丸亀町と11号線の交わるあの交差点で停車した風景を覚えている。
私が東京の大学に行っている間に、父の仕事が丸亀に変わり、
私が「帰省」する先が、縁もゆかりもない、この「さぬき」だった。
親戚も同級生も幼馴染もいないこの地に、
東京の大学を中退(正確には除籍)した20代前半の病弱な若者。
世間知らずで無鉄砲な「文学青年」が、流れ着いた。
まずは、箇条書きの年譜を作成しよう。
◇1979年
再び、三度?(東京の大学時代、既に半年近く入院をしていた)入院。
約1年間の長期入院となる。
病歴の話は、かなり長くなるので後述したい。
◇1981年
退院して社会復帰してタウン誌で劇団員・スタッフを募集していた「劇団・銀河鉄道」の練習場へ。
東京からやって来た自分としては「田舎の劇団でも、のっとってやれ」という感覚で行った先に、
とんでもない人物がいた。
劇団主宰の上村氏。
瞬間に、この人の作品を制作することに徹しようと決意。
私が香川で大きな影響を受けた4人の怪人・奇人の、ひとり目となった。
4作の制作に携わった。制作マンであり、演出助手的な仕事をしていた。
劇団員の歌の練習にはギター伴奏をしていたことも、今、この瞬間に思い起こした・・。
'81年「映画館物語」
'82年「映画の友」「霧の8マイル」
'83年「私の愛した兵隊さん」
アルバイトと演劇の2年間だった。
とくに最初の「映画館物語」は、月曜から日曜日までの、
6日間7回公演というミニ・ロングラン公演。
役者やスタッフが、それぞれ自分のバイトや仕事が終わって「小屋」に入り、
午後7時頃だっただろうか、それから本番が始まる。
それを数日繰り返した、あの頃はなんともいえない感覚の良き日々だったような記憶がある。
◇この頃から、劇団の照明、音響、舞台のプロのスタッフの方と知り合い、
舞台やイベントのアルバイトをするようになった。
日本舞踊、バレエ、子供の発表会から演歌ツアー、歌謡曲歌手のステージ。
音響や照明や舞台のスタッフの「パシリ」として汗をかいていた。
◇今はもうなくなってしまった高松市民会館がホームグラウンドだった。
あの小屋の楽屋、舞台裏、綱場、調光室やピンルームを忘れることはできない。
◇1984年
1984年ころから、銀河鉄道を離れる。
舞台音響の会社が、イベントの企画制作の部署をつくるので、
一緒にやらないか、という誘いを受け、飛び込む。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、
仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
上村氏も手のひらをかえすような離れ方を、不愉快に思ったのではないだろうか。
ただ、私はじっくりと話し合うこともなく、ただ、離れた。
◇この頃、香川は瀬戸大橋開通前、工事が進み、ようやく橋げたなどが姿を現し、
県、市、市民団体、青年会議所などは、橋の開通後はどうなる、どうすべきか。
瀬戸大橋博覧会は、どのようにすべきか。
様々な議論が各地で喧伝されていた。
◇1984年27歳、結婚。
◇1985年から正式にイベント企画制作会社に入社。
◇この前後で、次々とその後の人生に影響を与えてくれた香川の怪人・奇人に遭遇する。
尊敬の念を持って、敢えて怪人・奇人と呼ばせていただき、お名前を出させていただきます。
この4人の存在なしには、今の私の職業的なポジションはなかったと感じている。
誰一人欠けていても。
最初が前述した、劇団銀河鉄道の上村氏。
「演出する」ということを盗み取らせていただきました。
次に遭遇したのが、香川県ボランティア協会の小島会長。
「実行委員会組織」を使って様々な団体と協業するという手法を、
盗み取らせていただきました。
「サンサン祭り」事務局員を2年間ほどさせていただきました。
それから高松冬のまつりをひとつの頭の中から生み出した、岡内氏。
ボランティアの皆さんとの協業の仕方、「継続する」ことの重要さを。
コンセプトを守る強さを、盗み取らせていただきました。
第1回の冬のまつり立ち上げから第9回まで仕事として携わりました。
そして、音響会社にいち早くイベント企画制作部門を立ち上げた、青木氏。
仕事として何にこだわっるべきか、妥協をすることなかれ、という姿勢を、
盗み取らせていただきました。
高速道路開通、新高松空港開放行事、ねんりんピック、国体・・・
大きなイベントに携わることができました。
◇1996年
'95年に発売された「Windows95」とインターネット時代の幕開けに触発されて、
12年間勤めたイベント企画会社を退職。
フリーで自由な仕事をするつもりが、
あれよあれよという間に、IT系の会社を起業。
Web Media部門、Live Media部門、クリエーターズネットワーク部門の3つの部門を持つ構想の会社を5人で始める。
標榜したのは「メディア演出力」だった。
◇1998年
この年の香川芸術フェスティバルのオープニング公演を「たまたま」やらせていただくことになる。
脚本・演出・キャスティング・スタッフィング・プロデュースを行う。
この頃、地元の放送局の社長に「あしたのことが毎日掲載されるWeb」の話をするが、
「あしたでもあさってでもいいですけど、イベントカレンダーがあれば、いいんじゃないですか」と、一蹴される。
◇2003年、起業した会社を退職。
6年間で5名から30名弱の会社に拡大。
借入金4000万弱を現金で返済した年に、社長退任の意向を大株主に告げる。
10才若い社長に会社を託し、離れる。
◇2004年
1年間のフリーランスでの仕事の後、
「従業員100人以上で、総務部門のある会社に入りたい」という念願叶い、
地元の中堅企業に入社。
現在に至る。
ひとまず、年譜の項(二十歳以降)、校了。
◇写真は今回ネットで検索して20数年ぶりに対面した、
「映画館物語」の1シーンの写真。劇団銀河鉄道のサイトから借用した。
私は多分、1979年(昭和54年)、東京のアパートを引き払い、
2才上の兄と2tトラックをレンタカーで借りて荷物満載のトラックを運転し、
無謀にも東京から車で高松に着いたのを覚えている。
ジャンボフェリーから降りて、
11号線を通り、
今の丸亀町と11号線の交わるあの交差点で停車した風景を覚えている。
私が東京の大学に行っている間に、父の仕事が丸亀に変わり、
私が「帰省」する先が、縁もゆかりもない、この「さぬき」だった。
親戚も同級生も幼馴染もいないこの地に、
東京の大学を中退(正確には除籍)した20代前半の病弱な若者。
世間知らずで無鉄砲な「文学青年」が、流れ着いた。
まずは、箇条書きの年譜を作成しよう。
◇1979年
再び、三度?(東京の大学時代、既に半年近く入院をしていた)入院。
約1年間の長期入院となる。
病歴の話は、かなり長くなるので後述したい。
◇1981年
退院して社会復帰してタウン誌で劇団員・スタッフを募集していた「劇団・銀河鉄道」の練習場へ。
東京からやって来た自分としては「田舎の劇団でも、のっとってやれ」という感覚で行った先に、
とんでもない人物がいた。
劇団主宰の上村氏。
瞬間に、この人の作品を制作することに徹しようと決意。
私が香川で大きな影響を受けた4人の怪人・奇人の、ひとり目となった。
4作の制作に携わった。制作マンであり、演出助手的な仕事をしていた。
劇団員の歌の練習にはギター伴奏をしていたことも、今、この瞬間に思い起こした・・。
'81年「映画館物語」
'82年「映画の友」「霧の8マイル」
'83年「私の愛した兵隊さん」
アルバイトと演劇の2年間だった。
とくに最初の「映画館物語」は、月曜から日曜日までの、
6日間7回公演というミニ・ロングラン公演。
役者やスタッフが、それぞれ自分のバイトや仕事が終わって「小屋」に入り、
午後7時頃だっただろうか、それから本番が始まる。
それを数日繰り返した、あの頃はなんともいえない感覚の良き日々だったような記憶がある。
◇この頃から、劇団の照明、音響、舞台のプロのスタッフの方と知り合い、
舞台やイベントのアルバイトをするようになった。
日本舞踊、バレエ、子供の発表会から演歌ツアー、歌謡曲歌手のステージ。
音響や照明や舞台のスタッフの「パシリ」として汗をかいていた。
◇今はもうなくなってしまった高松市民会館がホームグラウンドだった。
あの小屋の楽屋、舞台裏、綱場、調光室やピンルームを忘れることはできない。
◇1984年
1984年ころから、銀河鉄道を離れる。
舞台音響の会社が、イベントの企画制作の部署をつくるので、
一緒にやらないか、という誘いを受け、飛び込む。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、
仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
上村氏も手のひらをかえすような離れ方を、不愉快に思ったのではないだろうか。
ただ、私はじっくりと話し合うこともなく、ただ、離れた。
◇この頃、香川は瀬戸大橋開通前、工事が進み、ようやく橋げたなどが姿を現し、
県、市、市民団体、青年会議所などは、橋の開通後はどうなる、どうすべきか。
瀬戸大橋博覧会は、どのようにすべきか。
様々な議論が各地で喧伝されていた。
◇1984年27歳、結婚。
◇1985年から正式にイベント企画制作会社に入社。
◇この前後で、次々とその後の人生に影響を与えてくれた香川の怪人・奇人に遭遇する。
尊敬の念を持って、敢えて怪人・奇人と呼ばせていただき、お名前を出させていただきます。
この4人の存在なしには、今の私の職業的なポジションはなかったと感じている。
誰一人欠けていても。
最初が前述した、劇団銀河鉄道の上村氏。
「演出する」ということを盗み取らせていただきました。
次に遭遇したのが、香川県ボランティア協会の小島会長。
「実行委員会組織」を使って様々な団体と協業するという手法を、
盗み取らせていただきました。
「サンサン祭り」事務局員を2年間ほどさせていただきました。
それから高松冬のまつりをひとつの頭の中から生み出した、岡内氏。
ボランティアの皆さんとの協業の仕方、「継続する」ことの重要さを。
コンセプトを守る強さを、盗み取らせていただきました。
第1回の冬のまつり立ち上げから第9回まで仕事として携わりました。
そして、音響会社にいち早くイベント企画制作部門を立ち上げた、青木氏。
仕事として何にこだわっるべきか、妥協をすることなかれ、という姿勢を、
盗み取らせていただきました。
高速道路開通、新高松空港開放行事、ねんりんピック、国体・・・
大きなイベントに携わることができました。
◇1996年
'95年に発売された「Windows95」とインターネット時代の幕開けに触発されて、
12年間勤めたイベント企画会社を退職。
フリーで自由な仕事をするつもりが、
あれよあれよという間に、IT系の会社を起業。
Web Media部門、Live Media部門、クリエーターズネットワーク部門の3つの部門を持つ構想の会社を5人で始める。
標榜したのは「メディア演出力」だった。
◇1998年
この年の香川芸術フェスティバルのオープニング公演を「たまたま」やらせていただくことになる。
脚本・演出・キャスティング・スタッフィング・プロデュースを行う。
この頃、地元の放送局の社長に「あしたのことが毎日掲載されるWeb」の話をするが、
「あしたでもあさってでもいいですけど、イベントカレンダーがあれば、いいんじゃないですか」と、一蹴される。
◇2003年、起業した会社を退職。
6年間で5名から30名弱の会社に拡大。
借入金4000万弱を現金で返済した年に、社長退任の意向を大株主に告げる。
10才若い社長に会社を託し、離れる。
◇2004年
1年間のフリーランスでの仕事の後、
「従業員100人以上で、総務部門のある会社に入りたい」という念願叶い、
地元の中堅企業に入社。
現在に至る。
ひとまず、年譜の項(二十歳以降)、校了。
◇写真は今回ネットで検索して20数年ぶりに対面した、
「映画館物語」の1シーンの写真。劇団銀河鉄道のサイトから借用した。
40年前の自分に会いに行きます
22才娘と52 歳父親〜海人に〜
娘の彼氏・・・・・・・・・・・今日の自分史・・・・
風になりたい。旅を続ける。自分史1995-1996
ウレシはずかし?51才初体験(笑)
瀬戸大橋のボルト<自分史1988-89年>
22才娘と52 歳父親〜海人に〜
娘の彼氏・・・・・・・・・・・今日の自分史・・・・
風になりたい。旅を続ける。自分史1995-1996
ウレシはずかし?51才初体験(笑)
瀬戸大橋のボルト<自分史1988-89年>
Posted by rookie1957@ストリート at 03:26│Comments(2)
│自分史
この記事へのコメント
銀河鉄道の募集記事は、同じ時期にみてます。
この募集記事に「演劇を、またしたい」と思いながら、おなかの子どもの産着を縫っていた時期です。
実は、rookieが銀河鉄道にいらしたことは、今の今まで知りませんでした。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
と、いうくだりを読んで、何十年も前に、私が今大きくぶつかる壁をひょいと乗り越えておられたんだなと知り、尊敬(ああ、つかいたくない言葉だw)しました。
この募集記事に「演劇を、またしたい」と思いながら、おなかの子どもの産着を縫っていた時期です。
実は、rookieが銀河鉄道にいらしたことは、今の今まで知りませんでした。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
と、いうくだりを読んで、何十年も前に、私が今大きくぶつかる壁をひょいと乗り越えておられたんだなと知り、尊敬(ああ、つかいたくない言葉だw)しました。
Posted by るいまま at 2008年01月28日 20:52
ふむふむ。
なるほど、なるほど。
なるほど、なるほど。
Posted by UDマン at 2008年01月28日 21:23