自分史:2008年3月
2008年03月14日
3月15日土曜日、ライブに出る。
2007年、ルーキーyear
人前で演奏することを32年振りに始めた。
詳しくはこちら → ”2007,ルーキーyear”
そして、今年、またまた心境の変化。進化。
2007年は、演奏していることは周囲の誰にも言わずに、
ライブ会場に集まった「私のことを知らないひとたち」に向けて演奏。
いろいろな反応があって。
毎回、大きく前進。
で、2008年。
演奏していることを、近しいひとにも、普通に話そう!と。
と、いうことで、2月から徐々に公開。
飲みともと、ライブはしご、したり。
その流れで、ブロガーウサ氏が、ギターを数本持ってて、
かつてガンガン演奏していたことを、barのカウンターで知る。
「また、やりましょうよ!」と。わたくし、煽る。
で、先週の土曜日、私はこんなんやってます、と見てもらおうとライブハウス「海人」へ。
ついでに、22年連れ添った家人も誘って3人で。彼女にも、全面的には、初公開。
そこで、ウサ氏の圧倒的なパワーにびっくりな私と、
私の自由奔放さに、あきれて気に入っていただいたウサ氏と、
二人を見て、「今度のウチのハウスライブに出ろ」と言った海人のマスター。
この3つの出来事がごちゃごちゃになって、3月15日が、在ります。
海人のマスターは、12月に私が出たグランドファーザーズのX’masライブの私の演奏を見てて、
「ありだろ、このスタイル、やり方」と、一応、認めていただいていたらしい。
海人おマスター曰く・・・
「ルーキーのやる演奏は、まあ、音楽的にどーのこーの、というレベルではなく、
そんなの関係なく、全編”ルーキーワールド”だから、いいんだよ、それで。」
「演奏スタイルが、全部、”ルーキーワールド”なんだから、何やっても。」笑。
うーん、ありがたいような、「?」な気分ですが。笑。
でも、2月にセッションしようとチャレンジした tossy がやってるブルースハープ教室の発表会で、
史上最低の飛び入りをして極度の落ち込みを体験したり。
胸いっぱいのワクワク感で、ひとりで言った「あがた森魚」ライブで、
無神経なうるさい客に「表へ出ろよ」と、立ち上がってしまったり
ブログ上で「ああいえばこういう」症状に歯止めがかからなかったり・・
感情の起伏も若干幅が広くなってたのか。
で、3月になって冒頭の顛末に。
**********************
ここ10ヶ月、高松界隈でやってるいろんなライブを突撃体験に行った。
で、最近気がついたことは・・
私が50歳を過ぎて3月15日を迎えるからと言って、
過剰に盛り上がっているのも・・
音楽、ライブ活動をずーっとやってる老若男女の方々からすると、
極めて「フツーの出来事」なんだなぁと、ひとり合点。
さ、やっとスタートラインに立とうとしてます。
このブログをここまで読み進んだ方々、ありがとうございます。
3月15日夜、お目にかかれると嬉しいです。
3月15日夜、都合が悪い方は、次回、4月26日(土)の緋色天幕ライブにも出る予定ですので。
次の機会にぜひ、聴いてください。
さ、ブログ書いてる暇があれば、練習練習。
・・・でも、あんまり繰り返すと、なんか飽きてくる?笑?
自分史の2008年3月、今、わたしは、ここにいます。
自分史、ITビジネス篇
2008年02月24日
■ITビジネス篇のはじめに
私の職業分野はいくつか、ある。
1985年から1995年までが、イベント、舞台の企画制作業。
1996年から2003年までが、IT系ベンチャー、インターネット関連業。
2004年から現在まで・・広告・販促・マーケティング関連業。
2006年から現在、今後・・インターネット広告、プロモーション、Webマーケティング業。
それぞれ、近いようで遠い、分かり合えない業種でもある。
それぞれの時代に私と出会った皆様は、
今でも当時のイメージが「こびりついている」らしい。
「イベント屋さん」
「舞台監督」
「ITベンチャー起業家」
「ケータイのことならなんでも知っている」
「Webの専門家」
「官公庁催事、事業の専門家」
「販促イベント屋さん」
「広告会社のプランナー、プロデューサー」
どれも、それ単独ではないし。
すべての業種・分野の、「完全なプロフェッショナル」でもないし。
■1995年、ITビジネス篇の端緒、はじまる。
1994年の暮れ頃から、The Boomの「風になりたい」のプロモ映像がテレビで繰り返し流され、スマッシュヒットをしていた冬。
1995年。
1月、阪神大震災。
なんか、世の中、変。
早朝に地震で目覚めて、テレビをずっと見入る。
「え?どうして火事が収まらないの?」
「映画のように飛行機やヘリコプターがガンガン来て、
どんどん消火されるのではないの?」
「ええ!なんで、深夜・早朝の黒い画面の字幕で、
死者の数だけが、カチャカチャ増えるの??????」
既成概念が、ガタガタと崩れ落ちる。
3月、プロ野球・野茂が年俸が下がり、マイナーからのスタートでもその道を選び、
大リーグに渡る。
5月頃、仏頂面、無表情で有名だった野茂が、
アメリカの5月の太陽に照らされたマイナーの球場芝生の上で、
にこやかにストレッチしている姿をテレビで見て、衝撃をうける。
年俸が激減し、まだメジャーにも上がれていない「日本で一流だった男」が、
自分の憧れであったメジャーリーグにチャレンジしている、
そのことだけ「男の満足感」が身体に溢れている。
そんなふうに見えて。
8月、Windows95英語版発売。
ニュースや解説が毎日喧伝される。
どうやら、インターネットというものを使えば、
コミュニケーションの幅が無限大に広がるらしい。
12年携わっていたイベントの企画制作という仕事から、
もっともっと広がりのある、「何か」をしたくて、
気持ちにあせりが出て来ていた時期だった。
「風になりたい」と「阪神大震災」と「野茂」。
この3つの事象が私の心を動かして、
1995年の秋、12年勤め、育ててくれた会社に退職の意思を伝えた。
■1996年、フリーからITビジネスへ
この年の1月に退職。37歳。
当初はフリーのディレクターとして、イベントの企画制作や、
「ホームページをつくる」という仕事をするつもりだった。
ところが、退職の挨拶に行った「とある恩人」に、
『男というものは40近くもなってひとりで自分の出来ることだけやるのは、いかん。』
『会社をつくって、自分ひとりの力を3倍、3倍にするのが、男ぞ』
と、言われて。
(私)「ええ、それはわかりますが、私は仕事はしますが、お金もないし、
会社をつくる作業などに魅力を感じないのですが・・」
と、応えるも、なお、畳み掛けるように言ってくださる。
『ある企業のオーナーが、そういうソフトの会社をつくりたがっている。会うか?』
(私)「あ、はい。フリーになったばかりですから、仕事をいただかないといけませんから、
誰にでも会います」
と、いうきっかけから話はトントン拍子に進み、
1996年の1月に前職を退職し、
地元企業の資本参加をいただき、
6月には、いわゆる「ITベンチャー」として新しい会社が設立されていた。
1996年6月13日設立
奇しくも、私の生年月日と同じ月、日の登記となった。
1996年~97年 FMマリノ780開局総合プロデュース
コミュニティFM局の開局の仕事をしないか、と言われて、「面白いですね、やります」。
1997年~98年 香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業採択、推進
香川県の高度情報化に関する実験事業「香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業」に申請した5つの実験計画のうち4つが採用された。
「バーチャル放送局」
「ドクターネット」
「スクールネット」
「地域情報発信事業」の
コンテンツ企画・制作・運営に関するプロデュース作業にあたる。
「バーチャル放送局・テレラジネットせとないかい」では、
高校総体陸上競技のインターネット速報・中継を当時の遅い回線で敢行。
高校生写真部をネットワークして、デジカメ撮影⇒ノートPC+携帯電話通信カードで、
競技会場から即時レポートを実施。当時、月間30万PVを稼ぐ。
1998年~2000年 ポケットベル情報サービス事務局を受託
地元通信キャリアの仕事で、地方新聞社のニュースのテキスト情報を50文字編集・配信。
また、ユーザーとのインタラクティブ企画も推進する。
ポケベルユーザ減少により2000年その役を終える。
1999年~01年 地元通信キャリアのPC版、iモード版のホームページ運営事務局受託
リニューアルの企画・コンペにより獲得。
企画・制作・サーバ構築納品、ネットワーク管理、サイト運営更新事務局を受託。
2002年、通信キャリアのグループ会社に全面移行。
1999年~02年 「メール利用促進」メールクラブ運営受託
1999年2月22日、iモード発売される。
当時、これほどまでに普及すると見られなかった「携帯メール利用」について、
その普及促進・利用機会提供を図るためのメール会員制クラブを企画制作・運営。
クイズ、アンケートなどすべてのコンテンツが
メールのやりとりだけで可能なシステムを構築。
メールの爆発的な普及で、2002年、その役目を終えた。
2002年~03年 地元・中堅のカタログ通販のECサイト運営開始
販カタログのWebサイトの企画コンペに勝利。
ECサイトのPC版、携帯3キャリアのシステム再構築・コンテンツ全面リニューアルの総合プロデュースを行う。
1年で契約終了。
2002年~ 地元通信キャリアの携帯公式サイトの企画・運営
地元通信キャリアのキャンペーン連動 iモードサイト。
iモードの活用のきっかけづくり、利用促進のためのサイトとして企画・構築・運営スタート。
アクセス数の増大で年間運営が決まるなど、
コンテンツ&プロモーションの成功によるサイト企画・運営の続行という好事例となる。
2002~03年 携帯アプリケーションコンテスト企画運営受託
全国の携帯アプリ技術者に向けた、地元通信キャリアのアプリコンテストの企画・運営事務局・審査、総合プロデュース。
2004~2005年 香川県情報通信交流館の開館準備プロジェクトメンバー
サンポート高松に開館する新しい事業の計画実行段階からプロジェクトに招かれ、
コンテンツプロデューサーの立場で事業推進に携わる。
Webサイトの企画制作を行なう。
2005~6年 IT関連業務から離れる
自分で起業した会社を株主と若手に委ねでフリーとなり、その後、地元大手広告会社に入社。
しばらく「Web」に追い掛け回される生活から開放されたが、
調べて行く内に、広告、宣伝、マーケティング業界でも、インターネットの重要性を改めて認識。
2006~7年 社内にインターネット事業担当部門をつくる
結果的に、時代の波に誘われて、仕事のうち半分程度が、再びインターネット関連業務となる。
2007年の3月 地域ブログを香川に起こしたいという事業の協力依頼を受け、携わる。
2008年~ 社外に設立される、インターネット関連会社の起業推進
さらに結果的に、時代の波に誘われて・・・・
2008年4月1日設立されるインターネット関連会社の設立準備に携わる。
今後、仕事量のうち90%くらいは、インターネット関連なると思われる。。。
自分史、ITビジネス篇。現在まで。
私の職業分野はいくつか、ある。
1985年から1995年までが、イベント、舞台の企画制作業。
1996年から2003年までが、IT系ベンチャー、インターネット関連業。
2004年から現在まで・・広告・販促・マーケティング関連業。
2006年から現在、今後・・インターネット広告、プロモーション、Webマーケティング業。
それぞれ、近いようで遠い、分かり合えない業種でもある。
それぞれの時代に私と出会った皆様は、
今でも当時のイメージが「こびりついている」らしい。
「イベント屋さん」
「舞台監督」
「ITベンチャー起業家」
「ケータイのことならなんでも知っている」
「Webの専門家」
「官公庁催事、事業の専門家」
「販促イベント屋さん」
「広告会社のプランナー、プロデューサー」
どれも、それ単独ではないし。
すべての業種・分野の、「完全なプロフェッショナル」でもないし。
■1995年、ITビジネス篇の端緒、はじまる。
1994年の暮れ頃から、The Boomの「風になりたい」のプロモ映像がテレビで繰り返し流され、スマッシュヒットをしていた冬。
1995年。
1月、阪神大震災。
なんか、世の中、変。
早朝に地震で目覚めて、テレビをずっと見入る。
「え?どうして火事が収まらないの?」
「映画のように飛行機やヘリコプターがガンガン来て、
どんどん消火されるのではないの?」
「ええ!なんで、深夜・早朝の黒い画面の字幕で、
死者の数だけが、カチャカチャ増えるの??????」
既成概念が、ガタガタと崩れ落ちる。
3月、プロ野球・野茂が年俸が下がり、マイナーからのスタートでもその道を選び、
大リーグに渡る。
5月頃、仏頂面、無表情で有名だった野茂が、
アメリカの5月の太陽に照らされたマイナーの球場芝生の上で、
にこやかにストレッチしている姿をテレビで見て、衝撃をうける。
年俸が激減し、まだメジャーにも上がれていない「日本で一流だった男」が、
自分の憧れであったメジャーリーグにチャレンジしている、
そのことだけ「男の満足感」が身体に溢れている。
そんなふうに見えて。
8月、Windows95英語版発売。
ニュースや解説が毎日喧伝される。
どうやら、インターネットというものを使えば、
コミュニケーションの幅が無限大に広がるらしい。
12年携わっていたイベントの企画制作という仕事から、
もっともっと広がりのある、「何か」をしたくて、
気持ちにあせりが出て来ていた時期だった。
「風になりたい」と「阪神大震災」と「野茂」。
この3つの事象が私の心を動かして、
1995年の秋、12年勤め、育ててくれた会社に退職の意思を伝えた。
■1996年、フリーからITビジネスへ
この年の1月に退職。37歳。
当初はフリーのディレクターとして、イベントの企画制作や、
「ホームページをつくる」という仕事をするつもりだった。
ところが、退職の挨拶に行った「とある恩人」に、
『男というものは40近くもなってひとりで自分の出来ることだけやるのは、いかん。』
『会社をつくって、自分ひとりの力を3倍、3倍にするのが、男ぞ』
と、言われて。
(私)「ええ、それはわかりますが、私は仕事はしますが、お金もないし、
会社をつくる作業などに魅力を感じないのですが・・」
と、応えるも、なお、畳み掛けるように言ってくださる。
『ある企業のオーナーが、そういうソフトの会社をつくりたがっている。会うか?』
(私)「あ、はい。フリーになったばかりですから、仕事をいただかないといけませんから、
誰にでも会います」
と、いうきっかけから話はトントン拍子に進み、
1996年の1月に前職を退職し、
地元企業の資本参加をいただき、
6月には、いわゆる「ITベンチャー」として新しい会社が設立されていた。
1996年6月13日設立
奇しくも、私の生年月日と同じ月、日の登記となった。
1996年~97年 FMマリノ780開局総合プロデュース
コミュニティFM局の開局の仕事をしないか、と言われて、「面白いですね、やります」。
1997年~98年 香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業採択、推進
香川県の高度情報化に関する実験事業「香川コミュニケーションズネットワークモデル実験事業」に申請した5つの実験計画のうち4つが採用された。
「バーチャル放送局」
「ドクターネット」
「スクールネット」
「地域情報発信事業」の
コンテンツ企画・制作・運営に関するプロデュース作業にあたる。
「バーチャル放送局・テレラジネットせとないかい」では、
高校総体陸上競技のインターネット速報・中継を当時の遅い回線で敢行。
高校生写真部をネットワークして、デジカメ撮影⇒ノートPC+携帯電話通信カードで、
競技会場から即時レポートを実施。当時、月間30万PVを稼ぐ。
1998年~2000年 ポケットベル情報サービス事務局を受託
地元通信キャリアの仕事で、地方新聞社のニュースのテキスト情報を50文字編集・配信。
また、ユーザーとのインタラクティブ企画も推進する。
ポケベルユーザ減少により2000年その役を終える。
1999年~01年 地元通信キャリアのPC版、iモード版のホームページ運営事務局受託
リニューアルの企画・コンペにより獲得。
企画・制作・サーバ構築納品、ネットワーク管理、サイト運営更新事務局を受託。
2002年、通信キャリアのグループ会社に全面移行。
1999年~02年 「メール利用促進」メールクラブ運営受託
1999年2月22日、iモード発売される。
当時、これほどまでに普及すると見られなかった「携帯メール利用」について、
その普及促進・利用機会提供を図るためのメール会員制クラブを企画制作・運営。
クイズ、アンケートなどすべてのコンテンツが
メールのやりとりだけで可能なシステムを構築。
メールの爆発的な普及で、2002年、その役目を終えた。
2002年~03年 地元・中堅のカタログ通販のECサイト運営開始
販カタログのWebサイトの企画コンペに勝利。
ECサイトのPC版、携帯3キャリアのシステム再構築・コンテンツ全面リニューアルの総合プロデュースを行う。
1年で契約終了。
2002年~ 地元通信キャリアの携帯公式サイトの企画・運営
地元通信キャリアのキャンペーン連動 iモードサイト。
iモードの活用のきっかけづくり、利用促進のためのサイトとして企画・構築・運営スタート。
アクセス数の増大で年間運営が決まるなど、
コンテンツ&プロモーションの成功によるサイト企画・運営の続行という好事例となる。
2002~03年 携帯アプリケーションコンテスト企画運営受託
全国の携帯アプリ技術者に向けた、地元通信キャリアのアプリコンテストの企画・運営事務局・審査、総合プロデュース。
2004~2005年 香川県情報通信交流館の開館準備プロジェクトメンバー
サンポート高松に開館する新しい事業の計画実行段階からプロジェクトに招かれ、
コンテンツプロデューサーの立場で事業推進に携わる。
Webサイトの企画制作を行なう。
2005~6年 IT関連業務から離れる
自分で起業した会社を株主と若手に委ねでフリーとなり、その後、地元大手広告会社に入社。
しばらく「Web」に追い掛け回される生活から開放されたが、
調べて行く内に、広告、宣伝、マーケティング業界でも、インターネットの重要性を改めて認識。
2006~7年 社内にインターネット事業担当部門をつくる
結果的に、時代の波に誘われて、仕事のうち半分程度が、再びインターネット関連業務となる。
2007年の3月 地域ブログを香川に起こしたいという事業の協力依頼を受け、携わる。
2008年~ 社外に設立される、インターネット関連会社の起業推進
さらに結果的に、時代の波に誘われて・・・・
2008年4月1日設立されるインターネット関連会社の設立準備に携わる。
今後、仕事量のうち90%くらいは、インターネット関連なると思われる。。。
自分史、ITビジネス篇。現在まで。
Posted by rookie1957@ストリート at
16:17
│Comments(1)
自分史-さぬき音楽家編
2008年02月17日
自分史-さぬき音楽家編
さぬきの地に来て、様々な音楽家、ミュージシャンと一緒に仕事をした。
オリジナル曲の依頼。
イベントでの演奏曲の依頼。
異ジャンルの音楽家とのコラボレーション。
自分史・・音楽を愛する人たちとの交流編。
■1985~1988年頃
◇「福祉の船 にじいろ丸」
というイベントを、数年に亘り企画制作した。
香川県の仕事で、瀬戸大橋架橋工事見学の船旅。
船の上でのアトラクションとして、
エレクトーンの先生方にバンドを組んでいただいた。
香川のエレクトーン界の「ドン(女性)」と呼ばれる細川先生。
そのバンドを組んでもらった。
エレクトーン、キーボード、ボーカル、コーラス・・。
パンフレット印刷の締切り直前に私が勝手につけさせていただいた
『アップル・プリン・プロジェクト(APP)』というユニット名が、
そのまま数年に亘ってこのバンドの名前として続いた。
とてもフレキシブルでアンサンブルで、
どんな場面でもどんなイベントで、
イメージに合った曲を演奏してくれて、歌って「踊って」くれた。
◇こどもミュージカル『泣いた赤おに』
浜田廣介原作の有名な童話「泣いた赤鬼」を、
二期会の作曲家・松井和彦がオペラとして創作した作品。
当時の四国二期会の玉置先生と当時の私の上司・青木プロデューサーが共同で、
子供用巡回公演ができるように、エレクトーン用に編曲し制作。
新居浜の舞台装置家でバレエの舞台監督を務める近藤氏に背景ドロップや、
舞台セット、小道具の製作を依頼。
音楽は前述・細川先生のエレクトーン演奏録音でカラオケ化した。
香川県内の様々な小学校はもちろんのこと、徳島県などでも公演。
出演者には、現在の四国二期会のベテランも多い。
叙情的な旋律や、綿密に組み立てられたハーモニーやオペラらしい掛け合いの妙は、
音楽的に高度かつ、小さなこどもたちにも分かりやすい感動的な作品だった。
■1991年/レオマワールド
『ストリートガーデンステージ』の生バンドとダンスレビューショー。
1年目は当時の上司・青木プロデューサーの作・演出。
私は制作責任者としてチーフディレクター役。
振り付けを名倉加代子先生に依頼。
シャボン玉ホリデーのダンサーから当時のミュージカル業界の
TOP振り付け師として大御所の存在。
この時の編曲が内堀勝氏。
後年「あしたさぬき。ニナレ」のブラスバンド編曲を依頼することになる。
そして、この時の生バンドのピアニストが、2007年他界した梅村健一氏。
2年目は私が作・構成・選曲・演出・音楽製作を行った。
「ペディズ・ロックンロール・パーティ」
すべての打ち込み音楽と編曲を引き続き内堀氏に依頼。
10数人のダンサーが1日に3~4ステージ上演をほぼ360数日実演。
1年数ヶ月のロングラン舞台作品として思い出深い作品となった。
■1992~93年/東四国国体
「歌うお姉さんの標準献立のつくり方(ビデオ)」
香川が生んだ歌姫・瀬戸内が育んだ舞姫?
丸亀出身の声楽家・童謡歌手の松尾香さんとも、
多くの仕事を一緒にした。
そのイベントや作品の趣旨を説明し、
歌って欲しい1曲以外は、いつも松尾さんにお願いしていた。
聡明な彼女は深くその趣旨を理解し、
自分のものにして自分のことばで語り、
その催事を印象深いものにしてくれた。
■1993~94年/「ねんりんピック’94香川」
地味なイベントであったねんりんピックのPRのため、
マスコットキャラクターを「ねんりん家族」という6人家族の設定にした。
私が作詞を行い、細川先生が作曲・演奏録音をしてPRキャラバン用の
「キャラクターショー音楽」を制作。
この作品も、県下の様々な市や町のイベントで上演された。
■1997年/香川県エイズDAYキャンペーン
FMマリノとしてHOUSEにオリジナル曲を依頼。
「花に水を」ができあがる。
HOUSE1枚目のアルバムに収められている。
繊細で美しいメロディの楽曲となった。
■1998年/香川芸術フェスティバル'98オープニング公演「あしたさぬき。ニナレ」
そして、10年を経て2008年さぬきジュニアコーラスによって再演された
「あしたさぬき。ニナレ」は、この年に生まれた。
この舞台作品では、いくつかの音楽的コラボレーションを仕掛け、
交渉し、拝み倒して(?)、多くの方の協力を得て、実現にこぎつけた。
◎HOUSEと100人の合唱団と60人のブラスバンド。
◎和太鼓演奏と竹田豊靖の野の花空間アート
◎公務員スーパーギタリスト納田氏と津軽三味線・天弘房江のアドリブ競演と、
書家・高木翠園の大筆書きライブ。
■2001年頃/iモード502iキャンペーン
四国4県キャンペーン・キャラバンステージ用CMソング
さすらいの主婦シンガー「れおん」さんに、
短いフレーズをシンプルに連呼する楽曲を作曲依頼。
コケティッシュなサウンドが四国4県で流れる。
■2005年/四国アイランドリーグ/香川オリーブガイナーズ応援歌
2004年10月、四国にプロ野球独立リーグを立ち上げる。
という報道があってからしばらくして、
四国アイランドリーグ運営会社「株式会社IBLJ」の仕事に携わる。
日本初の試みの開幕準備でハードな毎日を過ごしている中で、
「香川オリーブガイナーズ」の応援歌が欲しいなぁ。と、企画。
さっそく、「これはHOUSEが一番適任!」と、HOUSEに電話。
口頭で1時間くらいイメージを伝える。
その後、ちょっとのやりとりでガツン!とした楽曲、できあがる。
いい味出します、さすがHOUSE。
「未来のステージへ」ずっと球場で流れていたので、
耳にされた人も多いのではないでしょうか。
■2006年/ASPAC高松大会「開会式」
高松青年会議所(高松JC)が主管となって開催する、
国際大会(アジア・オセアニア大会)の開会式を演出制作。
脚本・構成・演出・プロデュースを担当。
市民参加型の開会式のフィナーレをプランしているときに、
ミレカンの管涼子さんが「ドラムサークル」を高松で主宰しているのを発見。
そのドラムサークルのゲスト指導者が・・パーカッショニストの「ペッカー」。
おおおお!!松岡直也フリークの私としては、
アルバム録音にもライブにもミュージシャンとして必ずクレジット
されていた「ペッカー」なるパーカッショニストは憧れの的。
さっそく、ペッカーと一緒に仕事をすべく企画立案。(笑)
市民からゴスペル隊とパーカッション隊を募集。
ドラムサークルのワークショップを通して言葉のいらない、
打楽器でのコミュニケーションを演出。
フィナーレでアジア各国から集まった青年たちにも一緒に手を打って、
歌っていただこうと企画し採用され、実行。
選曲は難産の末、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」に。
ゴスペル隊は思うように集まらず、
複数の音楽指導者にお願いをしたが・・・
快く参加してくれたのは僅か・・・。
「あのひとが指導しているのなら、私は・・・」など、
ちいさな地域のちいさな縄張り意識が見えて、不愉快で悲しい展開になりつつ。
でも、本番は大成功。
管さんのプロ根性と強い指導力に感謝。
ペッカーと参加してくださった市民の皆様に感謝。感謝。
*******************************************************
こうして振り返ると、
私は1998年の「あしたさぬき。ニナレ」以降は、
仕事の上での音楽的なコラボレーションのペースが落ちている事が判明。
なるほっど。
自分の気持ちの流れに、今、気がついた。
私の自分史は、
あしたさぬきが世に出た2007年に、
私が50才になった2007年に、
私が音楽とコラボする仕事から離れて10年ほど経った2007年に、
私が32年ぶりに人前で演奏することを始めた2007年に・・・
もしかすると始まるべくして始まったんだなぁと。
つくづく、思う。
*******************************************************
2008年2月11日に県民ホールで聴いた、目にした、
10年ぶりの「あしたさぬき。ニナレ」
様々な感想がブログに書き込まれています。
ライブ演奏としての、あの舞台の感想は、そのとおり。
ほんとうに清楚で真面目な音楽の力に満ち溢れていて。
熱い指導者とその思いを支えるピアニストと、
指導者を慕って自発的に集う音楽が好きな父兄とこどもたち。
音楽のある生活の良さを改めて気づかせてくれたひとときでした。
で、自分自身のルーキーyearに再開したライブでの演奏活動を、
結構本気で続けて行こうと。
人前で演奏するために、練習にも力を入れようと。
そんなことを思い始めた、自分史2008年2月。でした。
*******************************************************
写真は本文とは無関係です。
2004年、高松シンボルタワーがグランドオープン直前のとある日に、
最上階のそのまた上のヘリポートでの撮影。
キューツと、体が引き締まる場所でしたが、
さぬきの「新しいビューポイント」から見たさぬき平野と瀬戸内海は、
新鮮な印象を与えてくれました。
さぬきの地に来て、様々な音楽家、ミュージシャンと一緒に仕事をした。
オリジナル曲の依頼。
イベントでの演奏曲の依頼。
異ジャンルの音楽家とのコラボレーション。
自分史・・音楽を愛する人たちとの交流編。
■1985~1988年頃
◇「福祉の船 にじいろ丸」
というイベントを、数年に亘り企画制作した。
香川県の仕事で、瀬戸大橋架橋工事見学の船旅。
船の上でのアトラクションとして、
エレクトーンの先生方にバンドを組んでいただいた。
香川のエレクトーン界の「ドン(女性)」と呼ばれる細川先生。
そのバンドを組んでもらった。
エレクトーン、キーボード、ボーカル、コーラス・・。
パンフレット印刷の締切り直前に私が勝手につけさせていただいた
『アップル・プリン・プロジェクト(APP)』というユニット名が、
そのまま数年に亘ってこのバンドの名前として続いた。
とてもフレキシブルでアンサンブルで、
どんな場面でもどんなイベントで、
イメージに合った曲を演奏してくれて、歌って「踊って」くれた。
◇こどもミュージカル『泣いた赤おに』
浜田廣介原作の有名な童話「泣いた赤鬼」を、
二期会の作曲家・松井和彦がオペラとして創作した作品。
当時の四国二期会の玉置先生と当時の私の上司・青木プロデューサーが共同で、
子供用巡回公演ができるように、エレクトーン用に編曲し制作。
新居浜の舞台装置家でバレエの舞台監督を務める近藤氏に背景ドロップや、
舞台セット、小道具の製作を依頼。
音楽は前述・細川先生のエレクトーン演奏録音でカラオケ化した。
香川県内の様々な小学校はもちろんのこと、徳島県などでも公演。
出演者には、現在の四国二期会のベテランも多い。
叙情的な旋律や、綿密に組み立てられたハーモニーやオペラらしい掛け合いの妙は、
音楽的に高度かつ、小さなこどもたちにも分かりやすい感動的な作品だった。
■1991年/レオマワールド
『ストリートガーデンステージ』の生バンドとダンスレビューショー。
1年目は当時の上司・青木プロデューサーの作・演出。
私は制作責任者としてチーフディレクター役。
振り付けを名倉加代子先生に依頼。
シャボン玉ホリデーのダンサーから当時のミュージカル業界の
TOP振り付け師として大御所の存在。
この時の編曲が内堀勝氏。
後年「あしたさぬき。ニナレ」のブラスバンド編曲を依頼することになる。
そして、この時の生バンドのピアニストが、2007年他界した梅村健一氏。
2年目は私が作・構成・選曲・演出・音楽製作を行った。
「ペディズ・ロックンロール・パーティ」
すべての打ち込み音楽と編曲を引き続き内堀氏に依頼。
10数人のダンサーが1日に3~4ステージ上演をほぼ360数日実演。
1年数ヶ月のロングラン舞台作品として思い出深い作品となった。
■1992~93年/東四国国体
「歌うお姉さんの標準献立のつくり方(ビデオ)」
香川が生んだ歌姫・瀬戸内が育んだ舞姫?
丸亀出身の声楽家・童謡歌手の松尾香さんとも、
多くの仕事を一緒にした。
そのイベントや作品の趣旨を説明し、
歌って欲しい1曲以外は、いつも松尾さんにお願いしていた。
聡明な彼女は深くその趣旨を理解し、
自分のものにして自分のことばで語り、
その催事を印象深いものにしてくれた。
■1993~94年/「ねんりんピック’94香川」
地味なイベントであったねんりんピックのPRのため、
マスコットキャラクターを「ねんりん家族」という6人家族の設定にした。
私が作詞を行い、細川先生が作曲・演奏録音をしてPRキャラバン用の
「キャラクターショー音楽」を制作。
この作品も、県下の様々な市や町のイベントで上演された。
■1997年/香川県エイズDAYキャンペーン
FMマリノとしてHOUSEにオリジナル曲を依頼。
「花に水を」ができあがる。
HOUSE1枚目のアルバムに収められている。
繊細で美しいメロディの楽曲となった。
■1998年/香川芸術フェスティバル'98オープニング公演「あしたさぬき。ニナレ」
そして、10年を経て2008年さぬきジュニアコーラスによって再演された
「あしたさぬき。ニナレ」は、この年に生まれた。
この舞台作品では、いくつかの音楽的コラボレーションを仕掛け、
交渉し、拝み倒して(?)、多くの方の協力を得て、実現にこぎつけた。
◎HOUSEと100人の合唱団と60人のブラスバンド。
◎和太鼓演奏と竹田豊靖の野の花空間アート
◎公務員スーパーギタリスト納田氏と津軽三味線・天弘房江のアドリブ競演と、
書家・高木翠園の大筆書きライブ。
■2001年頃/iモード502iキャンペーン
四国4県キャンペーン・キャラバンステージ用CMソング
さすらいの主婦シンガー「れおん」さんに、
短いフレーズをシンプルに連呼する楽曲を作曲依頼。
コケティッシュなサウンドが四国4県で流れる。
■2005年/四国アイランドリーグ/香川オリーブガイナーズ応援歌
2004年10月、四国にプロ野球独立リーグを立ち上げる。
という報道があってからしばらくして、
四国アイランドリーグ運営会社「株式会社IBLJ」の仕事に携わる。
日本初の試みの開幕準備でハードな毎日を過ごしている中で、
「香川オリーブガイナーズ」の応援歌が欲しいなぁ。と、企画。
さっそく、「これはHOUSEが一番適任!」と、HOUSEに電話。
口頭で1時間くらいイメージを伝える。
その後、ちょっとのやりとりでガツン!とした楽曲、できあがる。
いい味出します、さすがHOUSE。
「未来のステージへ」ずっと球場で流れていたので、
耳にされた人も多いのではないでしょうか。
■2006年/ASPAC高松大会「開会式」
高松青年会議所(高松JC)が主管となって開催する、
国際大会(アジア・オセアニア大会)の開会式を演出制作。
脚本・構成・演出・プロデュースを担当。
市民参加型の開会式のフィナーレをプランしているときに、
ミレカンの管涼子さんが「ドラムサークル」を高松で主宰しているのを発見。
そのドラムサークルのゲスト指導者が・・パーカッショニストの「ペッカー」。
おおおお!!松岡直也フリークの私としては、
アルバム録音にもライブにもミュージシャンとして必ずクレジット
されていた「ペッカー」なるパーカッショニストは憧れの的。
さっそく、ペッカーと一緒に仕事をすべく企画立案。(笑)
市民からゴスペル隊とパーカッション隊を募集。
ドラムサークルのワークショップを通して言葉のいらない、
打楽器でのコミュニケーションを演出。
フィナーレでアジア各国から集まった青年たちにも一緒に手を打って、
歌っていただこうと企画し採用され、実行。
選曲は難産の末、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」に。
ゴスペル隊は思うように集まらず、
複数の音楽指導者にお願いをしたが・・・
快く参加してくれたのは僅か・・・。
「あのひとが指導しているのなら、私は・・・」など、
ちいさな地域のちいさな縄張り意識が見えて、不愉快で悲しい展開になりつつ。
でも、本番は大成功。
管さんのプロ根性と強い指導力に感謝。
ペッカーと参加してくださった市民の皆様に感謝。感謝。
*******************************************************
こうして振り返ると、
私は1998年の「あしたさぬき。ニナレ」以降は、
仕事の上での音楽的なコラボレーションのペースが落ちている事が判明。
なるほっど。
自分の気持ちの流れに、今、気がついた。
私の自分史は、
あしたさぬきが世に出た2007年に、
私が50才になった2007年に、
私が音楽とコラボする仕事から離れて10年ほど経った2007年に、
私が32年ぶりに人前で演奏することを始めた2007年に・・・
もしかすると始まるべくして始まったんだなぁと。
つくづく、思う。
*******************************************************
2008年2月11日に県民ホールで聴いた、目にした、
10年ぶりの「あしたさぬき。ニナレ」
様々な感想がブログに書き込まれています。
ライブ演奏としての、あの舞台の感想は、そのとおり。
ほんとうに清楚で真面目な音楽の力に満ち溢れていて。
熱い指導者とその思いを支えるピアニストと、
指導者を慕って自発的に集う音楽が好きな父兄とこどもたち。
音楽のある生活の良さを改めて気づかせてくれたひとときでした。
で、自分自身のルーキーyearに再開したライブでの演奏活動を、
結構本気で続けて行こうと。
人前で演奏するために、練習にも力を入れようと。
そんなことを思い始めた、自分史2008年2月。でした。
*******************************************************
写真は本文とは無関係です。
2004年、高松シンボルタワーがグランドオープン直前のとある日に、
最上階のそのまた上のヘリポートでの撮影。
キューツと、体が引き締まる場所でしたが、
さぬきの「新しいビューポイント」から見たさぬき平野と瀬戸内海は、
新鮮な印象を与えてくれました。
Posted by rookie1957@ストリート at
16:20
│Comments(3)
県民ホール、行きます
2008年02月11日
エレガットを買いました。(嬉)
お正月休み、ボーナスが入った余勢をかってネットで注文。
銀行振込みを選んで・・
そのまま慌しく日々が過ぎて1月末ころ・・
もう、ギターの注文は流れていると思い込んでたときに1通のメールが。
「お取り置きしていますギターですが、明日振り込みいただければ、
まだ間に合います・・・云々」
意表を突かれた丁寧さ。
(いえいえ、自分の仕事上では懇々とスポンサーに説明している手法ですが・・苦笑)
スナオな私は次の日、振り込んでいました。
で、念願のエレガット。
ナイロン弦のクラシックギタータイプですが、
エレキギターのように内臓マイクがあり、シールドコードでアンプに繋ぐことができます。
ライブやセッションで、鉄弦のフォークギター(アコースティックギター)とも違う力を発揮します。
練習にはもってこいです。
鉄弦で練習するときの「あの指の痛さ」が少なくてすみますし。
で、今練習しているのは「あしたさぬき。ニナレ」
自分なりの、自分の演奏曲としてレパートリーに入れたいと。
で、今日、1時過ぎに県民ホールに出かけます。
1998年に創作した楽曲が、再び県民ホールの大ホールで、
どんな風に響き渡るのか。とても、とても楽しみです。
80人の大合唱団とフルブラスバンドとHOUSEによって、
劇中歌として演奏された「あしたさぬき。ニナレ」が、
さぬきのこどもたちのコーラス曲として、どんなふうに流れるのか。
「あしたさぬき。ニナレ」を再演するさぬきジュニアコーラスさんの出番は14時頃とのことですが、
フェスティバルの最初からきちんと観客として見て。
その流れの中で、さぬきジュニアコーラスさんがどんな演奏になるのか、
心持ちを静かにして待っていようと思います。
写真は楽器店撮影の販売用のものです。
Ovetion Celebrity CC-243
自分史/1999年前半・・
2008年02月03日
1999年は、私にとって大きな変化の年となった。
1996年に起業したITベンチャー企業は、
従業員は4名でスタートから12,3人になっていたが、
創業3年近くで借入金が3000万を越えていた。
この頃だったか、書店で「会社のたたみ方」という本を手に取り、
購入したことを覚えている。
しかし、どんなジャンル、タイトルの本でも、
探せば出版されているものだと感心したことも覚えている。(苦笑)
1997年から、私の会社では「ポケットベル情報サービス事務局」を受託していた。
そう、ポケベルの全盛期ちょっと過ぎの、
販売数が減少しはじめた時期だった。
「インフォネクスト」という当時の最新機種が、
50文字までのテキスト文字を表示できるようになり、
そのポケベルに四国4県の新聞社のニュースを50文字に編集して、
四国のポケベルユーザーに配信する、という仕事だった。
そして、1999年2月22日、iモードが発売された。
私は3月上旬に、写真にあるあの「広末涼子のF501i」を購入した。
ここから、私と私の会社のiモード仕事三昧がスタートした。
この2月、3月には、まさかこの「iモード」という世界初のビジネスモデルが、
私の会社を助けることになろうとは、想像もしていなかった。
iモード発売直前の2月上旬、東京のIT系の展示会・カンファレンスに勉強に行った時の出来事。
20席ほどの小さなカンファレンスの講師は、多分、日経BP社の雑誌の編集長だったと記憶している。
その編集長曰く。
「今度、携帯電話だけでメールを打って、そのままeメールを送信できる端末が発売されます。
こんな小さなボタンや画面で、メールをする人なんかいない。あるいは、少ない。
と思う人、手を挙げてください。」
私も、なんとなく、手を挙げた。
20席のうち、半分くらいは手を挙げていただろうか。
編集長、再び曰く。
「今手を挙げた人は、この会場から出て行ってください。
私は、あなたがこの新しいサービスをするかどうかは関係ありません。
今後、この新しいiモードというサービスが広がると、
どんな暮らしになるか、どんなビジネスが生まれるかについてお話をします。
ですから、『こんなサービス使わない』と思う人は、私の話を聞かなくていいです。」
私は、もちろん、手をすーーっと、下げた。
そこから、私のiモードに関する企画、制作、プロモーション、プロデュースが爆走し始めた。
4月にはiモードの使い方を分かりやすく説明する体験型のプレゼンテーション、
『アイやん・モッちゃんのLet's iモード・スク~~ル!』が初演を迎え、
1999年の4月から2002年頃まで、iモードの発展と共に四国全域で、
数百ステージをこなす「ヒット作プレゼンテーション」となった。
このわかりにくいiモードサービスを、”超美形”プレゼンテーター(イベントナレーターコンパニオン)をふたり組みで使い、
掛け合い形式で、ちょっとオトボケ風に、楽しくやりとりする構成・演出。
こまかなやりとりのシナリオを書き、
鬼のようにリハーサルを行い、
シナリオのやり取りに合わせて、中央の大型ディスプレイでは、
実際のiモードの画面を拡大してシナリオに合わせて操作する、
という、デジタルであるようでアナログな「ステージSHOW」だった。
テーマ曲はグレンミラーの「In the Mood」。
『アイやん・モッちゃんのLet's iモード・スク~~ル!』と美形ふたりがコールすると、
スィングの小気味良いサウンドが流れ、ふたりが登場する。
新しいサービス、端末が出る度にシナリオを毎回書くのも、
演出、リハーサルをするのも、
四国4県各地のイベント現場をツアーして回るのも、
楽しくてしょうがなかった。
製作者として充実した仕事だった。
しかしもちろん、そんな楽しそうな表情は一切人前では見せない、
「クールでポーカーフェイス」なプロデューサーとして存在していた。
このiモードの仕事が数年間に亘り、大きな収入源となった。
1999年の後半は、また、次の機会に。
自分史・・年譜/二十歳以降
2008年01月28日
◇1979年、四国、さぬきに上陸
私は多分、1979年(昭和54年)、東京のアパートを引き払い、
2才上の兄と2tトラックをレンタカーで借りて荷物満載のトラックを運転し、
無謀にも東京から車で高松に着いたのを覚えている。
ジャンボフェリーから降りて、
11号線を通り、
今の丸亀町と11号線の交わるあの交差点で停車した風景を覚えている。
私が東京の大学に行っている間に、父の仕事が丸亀に変わり、
私が「帰省」する先が、縁もゆかりもない、この「さぬき」だった。
親戚も同級生も幼馴染もいないこの地に、
東京の大学を中退(正確には除籍)した20代前半の病弱な若者。
世間知らずで無鉄砲な「文学青年」が、流れ着いた。
まずは、箇条書きの年譜を作成しよう。
◇1979年
再び、三度?(東京の大学時代、既に半年近く入院をしていた)入院。
約1年間の長期入院となる。
病歴の話は、かなり長くなるので後述したい。
◇1981年
退院して社会復帰してタウン誌で劇団員・スタッフを募集していた「劇団・銀河鉄道」の練習場へ。
東京からやって来た自分としては「田舎の劇団でも、のっとってやれ」という感覚で行った先に、
とんでもない人物がいた。
劇団主宰の上村氏。
瞬間に、この人の作品を制作することに徹しようと決意。
私が香川で大きな影響を受けた4人の怪人・奇人の、ひとり目となった。
4作の制作に携わった。制作マンであり、演出助手的な仕事をしていた。
劇団員の歌の練習にはギター伴奏をしていたことも、今、この瞬間に思い起こした・・。
'81年「映画館物語」
'82年「映画の友」「霧の8マイル」
'83年「私の愛した兵隊さん」
アルバイトと演劇の2年間だった。
とくに最初の「映画館物語」は、月曜から日曜日までの、
6日間7回公演というミニ・ロングラン公演。
役者やスタッフが、それぞれ自分のバイトや仕事が終わって「小屋」に入り、
午後7時頃だっただろうか、それから本番が始まる。
それを数日繰り返した、あの頃はなんともいえない感覚の良き日々だったような記憶がある。
◇この頃から、劇団の照明、音響、舞台のプロのスタッフの方と知り合い、
舞台やイベントのアルバイトをするようになった。
日本舞踊、バレエ、子供の発表会から演歌ツアー、歌謡曲歌手のステージ。
音響や照明や舞台のスタッフの「パシリ」として汗をかいていた。
◇今はもうなくなってしまった高松市民会館がホームグラウンドだった。
あの小屋の楽屋、舞台裏、綱場、調光室やピンルームを忘れることはできない。
◇1984年
1984年ころから、銀河鉄道を離れる。
舞台音響の会社が、イベントの企画制作の部署をつくるので、
一緒にやらないか、という誘いを受け、飛び込む。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、
仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
上村氏も手のひらをかえすような離れ方を、不愉快に思ったのではないだろうか。
ただ、私はじっくりと話し合うこともなく、ただ、離れた。
◇この頃、香川は瀬戸大橋開通前、工事が進み、ようやく橋げたなどが姿を現し、
県、市、市民団体、青年会議所などは、橋の開通後はどうなる、どうすべきか。
瀬戸大橋博覧会は、どのようにすべきか。
様々な議論が各地で喧伝されていた。
◇1984年27歳、結婚。
◇1985年から正式にイベント企画制作会社に入社。
◇この前後で、次々とその後の人生に影響を与えてくれた香川の怪人・奇人に遭遇する。
尊敬の念を持って、敢えて怪人・奇人と呼ばせていただき、お名前を出させていただきます。
この4人の存在なしには、今の私の職業的なポジションはなかったと感じている。
誰一人欠けていても。
最初が前述した、劇団銀河鉄道の上村氏。
「演出する」ということを盗み取らせていただきました。
次に遭遇したのが、香川県ボランティア協会の小島会長。
「実行委員会組織」を使って様々な団体と協業するという手法を、
盗み取らせていただきました。
「サンサン祭り」事務局員を2年間ほどさせていただきました。
それから高松冬のまつりをひとつの頭の中から生み出した、岡内氏。
ボランティアの皆さんとの協業の仕方、「継続する」ことの重要さを。
コンセプトを守る強さを、盗み取らせていただきました。
第1回の冬のまつり立ち上げから第9回まで仕事として携わりました。
そして、音響会社にいち早くイベント企画制作部門を立ち上げた、青木氏。
仕事として何にこだわっるべきか、妥協をすることなかれ、という姿勢を、
盗み取らせていただきました。
高速道路開通、新高松空港開放行事、ねんりんピック、国体・・・
大きなイベントに携わることができました。
◇1996年
'95年に発売された「Windows95」とインターネット時代の幕開けに触発されて、
12年間勤めたイベント企画会社を退職。
フリーで自由な仕事をするつもりが、
あれよあれよという間に、IT系の会社を起業。
Web Media部門、Live Media部門、クリエーターズネットワーク部門の3つの部門を持つ構想の会社を5人で始める。
標榜したのは「メディア演出力」だった。
◇1998年
この年の香川芸術フェスティバルのオープニング公演を「たまたま」やらせていただくことになる。
脚本・演出・キャスティング・スタッフィング・プロデュースを行う。
この頃、地元の放送局の社長に「あしたのことが毎日掲載されるWeb」の話をするが、
「あしたでもあさってでもいいですけど、イベントカレンダーがあれば、いいんじゃないですか」と、一蹴される。
◇2003年、起業した会社を退職。
6年間で5名から30名弱の会社に拡大。
借入金4000万弱を現金で返済した年に、社長退任の意向を大株主に告げる。
10才若い社長に会社を託し、離れる。
◇2004年
1年間のフリーランスでの仕事の後、
「従業員100人以上で、総務部門のある会社に入りたい」という念願叶い、
地元の中堅企業に入社。
現在に至る。
ひとまず、年譜の項(二十歳以降)、校了。
◇写真は今回ネットで検索して20数年ぶりに対面した、
「映画館物語」の1シーンの写真。劇団銀河鉄道のサイトから借用した。
私は多分、1979年(昭和54年)、東京のアパートを引き払い、
2才上の兄と2tトラックをレンタカーで借りて荷物満載のトラックを運転し、
無謀にも東京から車で高松に着いたのを覚えている。
ジャンボフェリーから降りて、
11号線を通り、
今の丸亀町と11号線の交わるあの交差点で停車した風景を覚えている。
私が東京の大学に行っている間に、父の仕事が丸亀に変わり、
私が「帰省」する先が、縁もゆかりもない、この「さぬき」だった。
親戚も同級生も幼馴染もいないこの地に、
東京の大学を中退(正確には除籍)した20代前半の病弱な若者。
世間知らずで無鉄砲な「文学青年」が、流れ着いた。
まずは、箇条書きの年譜を作成しよう。
◇1979年
再び、三度?(東京の大学時代、既に半年近く入院をしていた)入院。
約1年間の長期入院となる。
病歴の話は、かなり長くなるので後述したい。
◇1981年
退院して社会復帰してタウン誌で劇団員・スタッフを募集していた「劇団・銀河鉄道」の練習場へ。
東京からやって来た自分としては「田舎の劇団でも、のっとってやれ」という感覚で行った先に、
とんでもない人物がいた。
劇団主宰の上村氏。
瞬間に、この人の作品を制作することに徹しようと決意。
私が香川で大きな影響を受けた4人の怪人・奇人の、ひとり目となった。
4作の制作に携わった。制作マンであり、演出助手的な仕事をしていた。
劇団員の歌の練習にはギター伴奏をしていたことも、今、この瞬間に思い起こした・・。
'81年「映画館物語」
'82年「映画の友」「霧の8マイル」
'83年「私の愛した兵隊さん」
アルバイトと演劇の2年間だった。
とくに最初の「映画館物語」は、月曜から日曜日までの、
6日間7回公演というミニ・ロングラン公演。
役者やスタッフが、それぞれ自分のバイトや仕事が終わって「小屋」に入り、
午後7時頃だっただろうか、それから本番が始まる。
それを数日繰り返した、あの頃はなんともいえない感覚の良き日々だったような記憶がある。
◇この頃から、劇団の照明、音響、舞台のプロのスタッフの方と知り合い、
舞台やイベントのアルバイトをするようになった。
日本舞踊、バレエ、子供の発表会から演歌ツアー、歌謡曲歌手のステージ。
音響や照明や舞台のスタッフの「パシリ」として汗をかいていた。
◇今はもうなくなってしまった高松市民会館がホームグラウンドだった。
あの小屋の楽屋、舞台裏、綱場、調光室やピンルームを忘れることはできない。
◇1984年
1984年ころから、銀河鉄道を離れる。
舞台音響の会社が、イベントの企画制作の部署をつくるので、
一緒にやらないか、という誘いを受け、飛び込む。
◇それまでアマチュア劇団でやってきた「制作」という作業を職業にすることを決めた時に、
仕事と同じようなことを趣味で持つ、ということを納得しない自分がいて、完全に劇団の仲間から離れた。
上村氏も手のひらをかえすような離れ方を、不愉快に思ったのではないだろうか。
ただ、私はじっくりと話し合うこともなく、ただ、離れた。
◇この頃、香川は瀬戸大橋開通前、工事が進み、ようやく橋げたなどが姿を現し、
県、市、市民団体、青年会議所などは、橋の開通後はどうなる、どうすべきか。
瀬戸大橋博覧会は、どのようにすべきか。
様々な議論が各地で喧伝されていた。
◇1984年27歳、結婚。
◇1985年から正式にイベント企画制作会社に入社。
◇この前後で、次々とその後の人生に影響を与えてくれた香川の怪人・奇人に遭遇する。
尊敬の念を持って、敢えて怪人・奇人と呼ばせていただき、お名前を出させていただきます。
この4人の存在なしには、今の私の職業的なポジションはなかったと感じている。
誰一人欠けていても。
最初が前述した、劇団銀河鉄道の上村氏。
「演出する」ということを盗み取らせていただきました。
次に遭遇したのが、香川県ボランティア協会の小島会長。
「実行委員会組織」を使って様々な団体と協業するという手法を、
盗み取らせていただきました。
「サンサン祭り」事務局員を2年間ほどさせていただきました。
それから高松冬のまつりをひとつの頭の中から生み出した、岡内氏。
ボランティアの皆さんとの協業の仕方、「継続する」ことの重要さを。
コンセプトを守る強さを、盗み取らせていただきました。
第1回の冬のまつり立ち上げから第9回まで仕事として携わりました。
そして、音響会社にいち早くイベント企画制作部門を立ち上げた、青木氏。
仕事として何にこだわっるべきか、妥協をすることなかれ、という姿勢を、
盗み取らせていただきました。
高速道路開通、新高松空港開放行事、ねんりんピック、国体・・・
大きなイベントに携わることができました。
◇1996年
'95年に発売された「Windows95」とインターネット時代の幕開けに触発されて、
12年間勤めたイベント企画会社を退職。
フリーで自由な仕事をするつもりが、
あれよあれよという間に、IT系の会社を起業。
Web Media部門、Live Media部門、クリエーターズネットワーク部門の3つの部門を持つ構想の会社を5人で始める。
標榜したのは「メディア演出力」だった。
◇1998年
この年の香川芸術フェスティバルのオープニング公演を「たまたま」やらせていただくことになる。
脚本・演出・キャスティング・スタッフィング・プロデュースを行う。
この頃、地元の放送局の社長に「あしたのことが毎日掲載されるWeb」の話をするが、
「あしたでもあさってでもいいですけど、イベントカレンダーがあれば、いいんじゃないですか」と、一蹴される。
◇2003年、起業した会社を退職。
6年間で5名から30名弱の会社に拡大。
借入金4000万弱を現金で返済した年に、社長退任の意向を大株主に告げる。
10才若い社長に会社を託し、離れる。
◇2004年
1年間のフリーランスでの仕事の後、
「従業員100人以上で、総務部門のある会社に入りたい」という念願叶い、
地元の中堅企業に入社。
現在に至る。
ひとまず、年譜の項(二十歳以降)、校了。
◇写真は今回ネットで検索して20数年ぶりに対面した、
「映画館物語」の1シーンの写真。劇団銀河鉄道のサイトから借用した。
ブログと私小説と自分史
2008年01月26日
そういえば、私は小・中・高と文学「少年~青年」だった。
必然的に大学は文学部。
小林秀雄をむさぼり読み、
「文学評論」をあれこれ研究していた。
今はもう死語になってしまったのだろうけれど、
日本近代文学~現代文学の流れの中で、
「私小説」という分野があった。
自分の毎日の暮らし。
自分がどれだけ貧乏で、どれだけ辛い生活をしているか。
自分がどんな恋愛をしているか。してきたか。
それを、ほぼそのまま書く。
これって、ブログがない時代の代替品?でしょうか。結果的には。
明治、大正、昭和の時代にブログがあれば、
これらの多くの作品のうち、ほとんどがブログ発の「私小説」になっていたのかなぁと。
有名な作家と作品では次のようなものがあります。
志賀直哉『城の崎にて』
田山花袋『蒲団』
檀一雄『リツ子、その愛』『火宅の人』
井上靖『わが母の記』
島尾敏雄『死の棘』
庄野潤三『絵合せ』『ピアノの音』
水上勉『寺泊』
山口瞳『血族』
今の若い人は読まないような作品ばかりですね。
そして、私は、ブログで毎日のことや気持ちを記すのは苦手で、
ブログで「自分史」を書こうと思っています。
ブログと私小説と自分史。
さて、いよいよ、はじめます。
(の、つもり、です・・)
(・・か、なぁ・・)
*****************
写真はフランスのカシスという小さな港町。
パリから一直線に南下してマルセイユを過ぎて、なお南へ。
最初にコートダジュールの海に出くわすまち。
ニースやモナコなどの高級リゾート地ではなく、
フランス庶民の避暑地とのことでした。
数年前、ひとり旅したところです。
一生忘れられない、思い出の3泊4日した港町。
*****************
成人式を迎えた娘に
2008年01月14日
今朝、振袖を着付けてもらった娘と、
スナップ記念写真を撮った。
思い起こしてみる。私の成人式は?
30年前、私は東京・江戸川区小岩で成人の日を迎えた。
田舎から出て来た私にも、きちんと丁寧に
江戸川区の銘が入った国語辞典が送られて来たことを今、思い出した。
その頃の私は大学に通いながらアルバイトをしていて、
極貧に近い生活をしていた。
20日か25日だったかのアルバイト給料日まで4,5日を残しているのに、
私の手元には500円札1枚しかなかったこともあった。
ただ、「極貧」だったのはお金がもとからなかったのか、
使い過ぎていつもなかったのかは、よく覚えていない・・?苦笑?
6,7人の仲間と8畳一間でコタツを囲んで鍋をして・・
麻雀をして・・
御茶ノ水にいくつもあった大型喫茶店に10数人の仲間と、
コーヒー1杯で数時間激論を交わしたり無駄話ししたり。
********
今日、成人式を迎える娘は、
学校大好きだった中学生が”何かの出来事”をきっかけに、
「明るく屈託のない登校拒否」になり、
「え?どうして高校に行かないといかんのん?」
という素朴な質問に、しどろもどろな説明しかできず。
中学を出てから自由気ままに生活をしていた娘が、
自分で「あ、今日派遣に登録したから」とか、
「来月から**に行くことになったから」とか、
「今度、###に行くから。派遣じゃなく」とか、
「まだ1,2ヶ月しか行ってないのに、正社員になれと言われた」とか。
「正社員になって1,2ヶ月なのにボーナスが10万以上も出たんよ」とか。
「来年には店長になれ言われるんやけど、無理やろ。」とか。
12月の末には、家族5人、娘のボーナスでふぐ料理をごちそうになって。
娘は娘なりに、自分の人生として進んでいる。らしい。
私といえば、今朝、娘を着付け場所まで送り。
着付けが終わって友達のところまで送り。
成人式が終わって友達とひとしきり遊んだあと、
夕方に迎えに行き、おじいちゃんと写真を撮ったあと、
同窓会に送って行き・・・・
と、いう「送り迎え係り」のいち日、らしい。
成人式を迎えた娘に、何か言う言葉があるだろうか・・・思案・・・・。
ありがとう、すくすくと育ってくれて。
これからも、一緒に、人生、生きていきましょう。
選挙には、必ず、行こうな。
かな。
いつか、あの中学生の時、何がきっかけで学校に行かなくなったのかを、
私に語ってくれる日が来るんだろうか・・・・。
いつかこのブログに辿りついて巡り合って。
この文章を読んでくれることを願って。
そんな時、娘は、なんとコメントするんだろうか。
スナップ記念写真を撮った。
思い起こしてみる。私の成人式は?
30年前、私は東京・江戸川区小岩で成人の日を迎えた。
田舎から出て来た私にも、きちんと丁寧に
江戸川区の銘が入った国語辞典が送られて来たことを今、思い出した。
その頃の私は大学に通いながらアルバイトをしていて、
極貧に近い生活をしていた。
20日か25日だったかのアルバイト給料日まで4,5日を残しているのに、
私の手元には500円札1枚しかなかったこともあった。
ただ、「極貧」だったのはお金がもとからなかったのか、
使い過ぎていつもなかったのかは、よく覚えていない・・?苦笑?
6,7人の仲間と8畳一間でコタツを囲んで鍋をして・・
麻雀をして・・
御茶ノ水にいくつもあった大型喫茶店に10数人の仲間と、
コーヒー1杯で数時間激論を交わしたり無駄話ししたり。
********
今日、成人式を迎える娘は、
学校大好きだった中学生が”何かの出来事”をきっかけに、
「明るく屈託のない登校拒否」になり、
「え?どうして高校に行かないといかんのん?」
という素朴な質問に、しどろもどろな説明しかできず。
中学を出てから自由気ままに生活をしていた娘が、
自分で「あ、今日派遣に登録したから」とか、
「来月から**に行くことになったから」とか、
「今度、###に行くから。派遣じゃなく」とか、
「まだ1,2ヶ月しか行ってないのに、正社員になれと言われた」とか。
「正社員になって1,2ヶ月なのにボーナスが10万以上も出たんよ」とか。
「来年には店長になれ言われるんやけど、無理やろ。」とか。
12月の末には、家族5人、娘のボーナスでふぐ料理をごちそうになって。
娘は娘なりに、自分の人生として進んでいる。らしい。
私といえば、今朝、娘を着付け場所まで送り。
着付けが終わって友達のところまで送り。
成人式が終わって友達とひとしきり遊んだあと、
夕方に迎えに行き、おじいちゃんと写真を撮ったあと、
同窓会に送って行き・・・・
と、いう「送り迎え係り」のいち日、らしい。
成人式を迎えた娘に、何か言う言葉があるだろうか・・・思案・・・・。
ありがとう、すくすくと育ってくれて。
これからも、一緒に、人生、生きていきましょう。
選挙には、必ず、行こうな。
かな。
いつか、あの中学生の時、何がきっかけで学校に行かなくなったのかを、
私に語ってくれる日が来るんだろうか・・・・。
いつかこのブログに辿りついて巡り合って。
この文章を読んでくれることを願って。
そんな時、娘は、なんとコメントするんだろうか。
Posted by rookie1957@ストリート at
12:34
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2007,ルーキーyear
2007年12月17日
私のネームを「rookie」にしたのは、
今年、私が、いくつかのことをはじめたから。
そのひとつが「人前での演奏」。
ギターです。
今から32年ほど前、中学から高校時代、
私は4つのバンドを同時に持っていました。
・jazz研究会
私の高校に伝統あるjazz研究会というサークルがありました。
私はウッドベースにチャンレンジし、
8千円で「日本楽器」のアルトサックスを買い、
結局、やっぱりギターに落ち着きました。
ただし、レパートリーは1曲。
ウエスモンゴメリーの「Softry as morning in sunrise」
オクターブ奏法。
・ジュリーバンド
当時、沢田研二がソロになって、
ガンガンヒット曲を飛ばしていた頃。
ヴォーカルの上手なヤツがいて
(結局、声優として活躍したヤツ)
彼を中心に、井上孝之バンドのつもりで、
バックをやってました
・ハードロックのバンド
レッドチェッペリン、ストーンズ、ドゥービーブラザーズなど。
私はアコースティックギターで、
「天国への階段」と「悲しみのアンジー」だけ参加。
YAMAHAポプコン広島大会で、
テープ審査96本中の20本かなにかに、まず通過。
その中から8バンドの中に、通過。
予選ライブに出て、落選。
ということで、ベスト8進出でした。
・「隠恋慕」
これまでの3つのバンドのバンマスをやっていたのは、
実は、このバンドのために、
イケてるギターや、しっかりとしたドラムスや
うまいベースの連中をつかまえること。
で、私がやりたかった、「はっぴいえんど」のコピーバンドが、
このバンドです。
私は「大滝詠一」役。
********************************
この4つのバンド以前に、
中学3年に初めてバンドを組んだのが、
ヘンテコな編成。
バイオリンの好きな先輩に集められて、
ギター、ベース、ドラムスに、バイオリンという編成。
演奏曲は、なんでか「赤色エレジー」と、
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング。
私は「二ールヤング」役で、
「サザンマン」とか「Hellpless」とかをやってました。
それ以前に一度、2歳年上の兄と、
ふるさとの尾道で、何かのフォークコンテストの尾道予選に出ました。
審査員に六文銭のギターの方が来ていたような・・
ただ、YAMAHA主催のそのコンテストで私と兄がやったのは・・
1970年に復活のテレビSHOWに生演奏で出演した
エルビス・プレスリーの「ラウディ・ミス・クラウディ」。
アコギ2本での、ロッカバラードでした・・
もちろん、六文銭の審査員から
「これは、対象外の曲ですよね・・・」的なコメントをいただき、落選。
**************************************
10代の多感な頃のバンド活動。
人前に出ることに何の疑問もなく。
とにかく「したいことを、していた」ストレートな時代。
で、今年、人前で演奏することにしました。
私の仕事は、ずーーーーっと、いわゆる「裏方」という仕事でした。
出演者を立て、主催者の語りたいことを、
あれこれの手練手管で実現する。
本番のときには、舞台袖や調光室や、
客席最後部に立っている。
Webを始めてからもプランをし、
プロデュースをする。
広告、プロモーションの仕事でも、
私そのものはデザインをしたりコピーを実際に書く
クリエーターではなく、
クリエィティブディレクターであったり、
プロデューサーであったり。
そういう「仕掛ける」側の仕事でしたから。
それが好きでしたし。
で、今年、半世紀。
で、いっちょ、人前で「自分そのもの」を出してみようかと。
5月・・仲間内の送別会ライブで、前座で32年ぶり、演奏。
7月・・初めて入った「海人」で、事前準備なしで1曲半、反省。
9月・・「グラファン」の20周年ライブに、前日お店に行ったときに言われて、
出演。少し、練習の成果でるが、同録されたCDを聞いて・・・再度、奮起。
10~11月・・「闘うオヤジ応援団」というNPO活動に遭遇。
四国SPのお店「slow step」に、恐る恐る、ネットだけ見て思い切って参加。
2回、「練習会ライブ」に参加。
場数で度胸を稼ぐ。
12月・・14日「緋色天幕」ライブに、きちんと参加。
少しの進化を自分でも実感。ちょこっとづつでも、前進。
今後
12月23日・・再び「グラファン」。武田オーナーが快く声を掛けてくださいました。
9月のときから進化した私で、恩返し?
12月24日・・「Ruff House」クリスマス「パイ投げ」ライブに。
自分の曲を1曲で、もう1曲はクリスマスSONGを、という掟。
これが、まだ、決まらないというピンチ。
「あしたさぬき。ニナレ」の吹奏楽楽譜は出て来たものの、
旋律をHOUSEに口写しで教えてもらったものの、
まだ、演奏するまでには至らないし。
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ペケペケの手習いの今年、ルーキーイヤーは「ライブ出演」
でも、本当の夢は、3,4年前から周りに公言をしていますが、
”ストリートで演奏すること”
そう、オヤジ・ストリートミュージシャンです。
酔っ払いたちがヨロヨロ歩く夜の丸亀町や南新町の隅っこで、
若い連中に混じって、ストリートでパフォーマンスしたい。
まだ少し足りない「きっかけの勇気」がいつか舞い降りることを、
自分自身に期待しながら、
楽しみに、待っていることろです。
*********************
で、遂に顔出しです。
心境の変化進化鈍化。で、しょうか。
Posted by rookie1957@ストリート at
08:02
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追憶。梅健さん。
2007年12月13日
梅村健一様
10年くらい前になるでしょうか。
初めて仕事をご一緒させていただきました。
生バンド演奏でのレビューショーを、
毎日まいにち、年間を通じて半野外のステージでやる。
そんな企画でプレイヤーとしてキャスティングされた梅さんに、
お会いしました。
クセのある個性的なミュージシャンの皆さんと、
我々企画・演出サイドはいつも仲良く、とはいきませんでしたね。
でも、梅さんは淡々とプレイをしてくださっていたと記憶しています。
東京や全国から舞台に乗るために集ってきている、
10数人のダンサーたちにも、慕われていたのではないでしょうか。
昨年、2006年に、るいままのイベントで久しぶりに演奏する姿を見て、
その年の暮れの仕事をお願いしました。
私も、あんなふうに渋く自由に、歌えるといいなぁと。
今年、人前で演奏することを始めたひとつのきっかけでもありました。
ご冥福をお祈りします。
*****************************
人間、年を重ねてゆくと、別れに遭遇する機会も増えて来ました。
これも、半世紀生きてはじめて知る感覚。
自分史の中に、
人との出遭いと別れはつきものです。
合掌
Posted by rookie1957@ストリート at
11:09
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