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Posted by あしたさぬき.JP at

ブログのまとめに便利☆自分のホームページづくり教室、はじまります

2017年11月04日

この「自分史を書き留める」ブログは、5年振りの更新となります・・・。

55才から60才となるこの5年間。かなりの激動な。

この年になって、今さら?笑?、3回の転職と3回の転居。

父が倒れ、1年後他界。

今年の2月、9時---18時の定時仕事を辞して、個人事業主となり、個人事務所立上げ。

三野晃一演出事務所 

定時仕事を辞めることにした大きな理由・・2013年に遭遇し、自然の流れではじまった、ライフワークとなる活動にもっと多くの時間を割きたかったので。
そして、2月に退職して、あれよあれよと言う間に、仲間・戦友たちと、この10月末、法人を立ち上げて。

一般社団法人 障害者・高齢者3Dプリンタ・ファクトリー

**********************

と、それはさておき。笑。

私が講師となり、これまで20数年間、企業や官公庁相手の「Webサイト企画制作、プロデュース」のノウハウを生かして、個人の方向けのホームページ作成を、カルチャー教室的な講座として開講することにしました!

「わたしのホームページづくり教室」、はじまります。




ブログで書き溜めた自分の思い出や、やって来た事を、個人のホームページにしてみませんか?本名でも、ニックネームでも、つくることができます。

☆無料のクラウド型ホームページ作成サービス(jimdo.com)を使うので、受講料以外の費用は発生しません。

☆初期制作も、年間の維持費も「0」で、自分のホームページを持つことができます。

☆1回2時間で、2,000円の、当日支払い。来たいときに来ることができるスタイルです。(事前予約は必要です)

☆初回で、ひとまず、自分のホームページの「枠」を持つことが出来ます。(非公開で作成します)

☆教室で指導、一緒に作業できるのは、大きく分けてふたつの作業です。

◆ホームページの「枠・かたち」のつくり方・・jimdoサービスの使い方

◆ホームページの中味・内容のつくり方、出版で言うと「編集」の仕方


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【募集要項】
●11月開講日程は、次の通り、時間はすべて午前10時~12時です。
平日朝教室:7日(月)、15日(水)、20日(月)
土曜朝教室:11日(土)、18日(土)●募集要項 定員15名:最低開講人数3名
●Yahooなどホームページにアクセスできるパソコンをお持ちください。インターネット回線はこちらでご用意します。
●ワード、エクセルなどを含めて、特別なソフトは不要です。
●作成するホームページは、公開・非公開を選べます。
●受講料 1回2,000円。当日お支払いください。
●回数に決まりはありません。あなたが必要な時だけ、回数だけ受講できます。いつ来ても、途中で辞めても大丈夫なスタイルです。
●会場/総合学習塾エフォート木太教室  高松市木太町3234-8 中原ビル2F  
===========================

読んだだけでは、よく分からないなぁ・・という方、もっと詳しく知りたいという方は、お気軽に電話でお問い合わせください。毎日、午前10時~午後8時の間、大丈夫です。
090-4339-1994
もちろん、仕事中など出れない時は、折り返しとなります。

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★さらに詳しい内容は、こちらから ⇒ 「わたしのホームページづくり教室」

★会場地図・申込みは、こちらから ⇒ わたしのホームページづくり教室申し込み【事前申込必要】

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 なぜ、私が、この教室を開こうかと思ったのか。
 私にとっては、としを重ねて行っても、ずっと継続できる社会との接点づくりであり、生涯現役を続ける、ひとつのプラットホームとでもいうのでしょうか。
 リンク先の詳細説明ページにも記載していますが、次のようなメッセージを書いてみました。

●講師からのメッセージ

 はじめまして。講師を務めます三野演出事務所代表の三野(さんの)晃一です。
 私は、1996年、windows95の発売に触発されて香川でITベンチャーを起業して以来、20数年間、Webプロデューサー、ディレクターとして仕事に携わっています。官公庁のWebサイトや大規模ECサイトや様々な企業のホームページを企画し、プロジェクトを指揮してきました。少しの成功と、数多くの困難や失敗を経験しました。

 そして還暦を迎えた今年2017年、自分の人生も振り返りながら、ホームページをもっと個人、ひとりひとりの皆さんに楽しんでつくってもらえないか。ホームページをつくる過程が楽しい。できあがったら嬉しい。気が変わったら自分で変えることもできる。そんな体験を、ゆっくりと、それぞれの皆さんのペースで「教室」として運営したい。そんなことを思うようになりました。

 今回、「総合学習塾エフォート」様が会場を提供してくださり、「Prime Ys’となきち」様に、私に足りない女性目線の企画を加えていただいてこの「わたしのホームページづくり教室」がスタートすることになりました。

 講師としていろいろな人生経験をお持ちの皆様の「わたしのホームページ」づくりに立ち会うことができることを、楽しみにしています。お気軽にお問い合わせください。そして、私と一緒に、そして受講生の皆さんと一緒にホームページ、つくってみませんか?

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 私も立上げに参画させてもらった、この「あしたさぬきJP」を通じて、この「わたしのホームページづくり教室」で、また、いろいろな方々に出会えることになるとすれば、それは本当に、あしたさぬきが始まった10年ほど前には想像もしていなかった、自分の人生にとっての大きな収穫でもあります。
 皆様とお会いできることを、楽しみにしています。


  


Posted by rookie1957@ストリート at 16:18Comments(0)日記/一般

40年前の自分に会いに行きます

2012年05月15日

三年ぶりの自分史は、高校の同級生に37年ぶりに会うことになっている、今日のこと。

「1年下の」同級生というややこしい言い方を彼はしてくれています。

それから、同級生という以上に、親元を離れて寮生活を共に過ごした戦友?でもあります。

この自分史でも以前に触れました。小学校卒業と同時に中学高校一貫教育の男子校の寮生活をはじめた43年前の。

自分で数字を書いていてびっくりしますが。(笑)


さらにややこしいのが、1年下の同級生たちと卒業を迎えたこと。


高校1年の年に肺病で9ヶ月ほど入院したために休学して留年。

一つ下の学年と共に高校生活を送りました。

中学1年から高校三年生の男ばかり200人くらいが生活する寮の毎日はエキサイティングではちゃめちゃで豪快でもあり隠微?な部分もありで、飽きることなく(笑)過ごしてた。

で、私は家の事情があり卒業と同時に実家を喪失して、日々の生活に追われてよく覚えてないけれど 、学校からの郵送物や同窓会の案内など届かずに返送されていたのだと思う。

私の記憶もかなり曖昧で、たぶん、同級生からすると、一つ年上で一緒に卒業した私は、卒業と同時に音信不通になって消えた??状態なんだろうかと。

広島市で高校生活を終えて東京の大学に進んでから、そう言えばこの学年の友達と合ったのは、

同じ大学の別の学部に進んだ奴と総武線で偶然同じ車両に乗り合わせたときと、

10年くらい前に、高松の夜の街を歩いてるときに突然!後ろから名前を呼ばれたときの、二回くらい。


今年のGWに、facebook の検索で私を見つけてくれた、この一つ年下の同級生からの友達リクエストから端を発して、その学年の同窓生がつくっているYahoo!メーリングリストに私を発見したことか投稿され、私のブログと顔本が公開されて、久し振り!!ラッシュが始まった。

そこに投稿された、私の40年前の言動やみんなが持っていたイメージは、なんだか少し、いままで自分が思っていた?「高校時代の自分」のイメージと少し違っていたり。(笑)

なんだか不思議な感覚に陥っている。

で、今日。

たまたま東京に出張となっていて、いま東京に住んでいるその1年下の同級生二人と会うことになった。

高校卒業以来37年ぶり。

同窓生というだけではなく、中学生時代から男子校のあの濃厚な寮生活を共に体験した戦友と、会う。

卒業前後の私は、どんな風に彼らと話をしていたのか。

家のこととかを相談していたのか。

みんなには何も言わずに??ただ、いなくなった?のか。

ほんとに、そんなことから記憶にないのが不思議なんだけど。

今日会う二人の口から、どんな私が飛び出して来るのか。


みんなのそれぞれの記憶の断片を語り合って、今日会う三人の中学高校時代が、今夜、甦る、らしい。


37年前、eメール、携帯メールというツールさえあれば、こんな状態にはならずに、誰かとは繋がっていることが出来たのだろうと、つくづく思う。


高校卒業以来、音信不通だった私が、今夜、彼らと、通じます。




(笑)50歳を越えたおじさんが、新橋のまちなかでわんわん泣き出さないように(笑) 、心鎮めて、会いに行きます。

さてさて。  

Posted by rookie1957@ストリート at 06:55Comments(0)自分史

22才娘と52 歳父親〜海人に〜

2009年07月09日



久し振り、かなりの久方ぶりの自分史ブログは


今日のこの日を書き留めておこうと。


2009年7月8日水曜日の深夜。25時くらいに娘とライブハウス海人へ


娘、初めてわたしのライブ演奏を聴く、の記。


少年時代


言葉にできない


キスして欲しい


千の風になって


kazukoさんとのいつものデュエット、五番街のマリーへ



私のアレンジ、編曲スタイルを初めて目の辺りにした娘の感想は


『お父さんらしいね』


え?なんで?


『だって昔から、カラオケに行っても、元の曲のままは歌ってなかったやん』


え?そう?


え?わたしは、昔から変わらないスタイル???(笑)

50才を過ぎて、自分で編み出したスタイルだと思ってたのに?!(笑)


帰りの代行タクシーの車内で


『いや、あれ、キスしてほしい、あれ、よかったよ』

娘のひとこと。


ああ、生きてて良かったと。


ただ、まあ、私が『じゃあ今日は、このくらいで。え?まだ聞きたい?』と、話を振ったところ・・


『いや、もうお腹いっぱいやし』と


軽く一蹴されましたです。


睡眠不足は確実なれど


娘の記憶の中に、わたしの演奏活動がインプットされたこの日に。


感謝です。


ありがとうございます
  

Posted by rookie1957@ストリート at 03:38Comments(4)自分史

娘の彼氏・・・・・・・・・・・今日の自分史・・・・

2008年07月15日

昭和の最後の年の、最後の月に生まれた娘の年齢は、平成の元号そのままだから、分かりやすい。


その娘が。

彼を家に連れて来るから、会えという。

娘からのケータイメール。

絵文字がキラキラしてて。





嫌だ。忙しいし・・。


明日は倉敷~岡山へ出張だし。

キーボードたたく指が、止まってしまったがな・・・・・


2008年7月15日火曜日の、今日このごろ。自分史・・・・他に話題はないのか・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・ 点、も、文字。意味は、ある・・・・・・・。  

Posted by rookie1957@ストリート at 21:18Comments(6)自分史

風になりたい。旅を続ける。自分史1995-1996

2008年06月23日



さっき、テレビ東京系の番組「みゅーじん」を見た。



今夜のアーティストは宮沢和史・・「宮沢和史が音楽の旅路を経て見つけたものとは…」

私の人生の転機である1995年から1996年。
そのとき、巷に流れ、
テレビにサンバの楽隊のMTVが流れ、
若者たちがカラオケで歌っていたのが・・・「風になりたい」

今夜の番組で、この「風になりたい」は、「島唄」のヒット後、沖縄のバンドと思われていたブームの転機になった曲との解説があって。

1994年に初めてブラジルを訪れた宮沢が、その後十数回通うことになるほどブラジルの魅力に獲り憑かれて生まれた曲が、「風になりたい」。

その後、全世界20数カ国でのコンサート活動を行うなど日本国内の商業的なプロモーションとはまったく違った独自の活動をやっている。

今夜の番組の中での宮沢の印象的なことば・・・

様々な音楽を求めて世界中を旅している宮沢が、
師として仰ぐ加藤登紀子との会話の中のことば・・・
(宮沢が思い立って行った国のほとんどで、加藤登紀子の足跡がある、と苦笑いしてました・・)

宮沢『どこかにたどり着くために旅をしているわけではないし、どこかに帰ろうと旅をしているわけでもないから・・・ただ・・・』

この言葉の続きはなんだったんだろう・・・

1995年・・・
Windows95が発売された年。
野茂が大リーグに渡った年。
堺屋太一の「大変な時代」(・・大変とは、「大きく変わる」という意という本・・)
「風になりたい」が巷に溢れていた年。

わたしは車の中でも、会社の自分のデスクでも、
「風になりたい」の1曲をリピートして延々と聞き続けていた。

今、宮沢は3つの顔を持って音楽活動をしているらしい。

ソロ・・
「宮沢和史 弾き語りによるコンサート 寄り道 2008 森の夢」




10人編成多国籍バンド「GANGA ZUMBA」・・・

THE BOOMの宮沢和史をボーカルに、高野寛、マルコス・スザーノなど、国籍も言語も音楽的バックグラウンドも異なる個性派ミュージシャンたち10人によるバンド。海外でも積極的に活動を行ない、2005年はヨーロッパ、中南米10カ国をツアー。



The Boom・・・活動休止中も、good newsが・・・
THE BOOMメンバー、2年半ぶりにステージで共演! そして、「10,000 SAMBA! ~日伯移民100周年記念音楽フェスタ~」への出演も決定!


旅、してるんだ。

宮沢は、沢木耕太郎と交友関係があるうだろうか。

1995年、「風になりたい」を聴きまくったわたしは、
1996年1月、12年勤めていた会社を、いわゆる脱サラした。

2008年、人前演奏再開から1年経った今、歌いたいなぁ・・「風になりたい」わたしヴァージョン。

*********************************
宮沢和史公式サイト⇒こちらから

「GANGA ZUMBA」公式サイト⇒こちらから

The Boom公式サイト⇒こちらから

ミュージシャン、宮沢和史。1989年、THE BOOMのボーカリストとしてデビュー。
代表曲の一つ「島唄」は、日本のみならず、アルゼンチンでの大ヒット後各国のミュージシャンに次々にカバーされ、国境を越え世界に広がり続けている。

1999年にはソロ活動をスタート。THE BOOMの活動と並行しながら、ソロとしても中南米やヨーロッパなど各国を巡り、自分のやりたい音楽を追及してきた。

そんな宮沢がデビューから19年かけて見つけた答えの一つが、2年前に結成した多国籍のメンバー11人からなるバンド・GANGA ZUMBA。14年前ボサノバに衝撃を受け、ブラジル音楽にのめり込んだ宮沢が、この歳月をかけて辿り着いた音楽。

宮沢和史が音楽の旅路を経て見つけたものとは…
  

Posted by rookie1957@ストリート at 00:10Comments(0)自分史

ウレシはずかし?51才初体験(笑)

2008年06月19日



自分史。2008年、梅雨から真夏へ。

まさか自分がこんな自分史を書くことになろうとは・・・。

51才、恥ずかしながら、おどる。らしい。

血沸き肉オドる?

高松まつり。あしたさぬきの有志のおどり連に参加。


その第1回目の練習会場が高松市民文化センターというブログを見て。


その会場の写真は、一瞬のうちに二十数年前の事を思い出させた。

まるで映画『地下鉄(メトロ)に乗って』の主人公が、何かのタイミングごとに“キューン”と地下鉄の坑道に吸い込まれて過去に放り投げ出されるが如く・・・

今から27、8年前。
私が四国に流れ着いて1、2年後くらいに。

タウン誌に載っていた『劇団のキャスト、スタッフ募集』という小さな記事を見つけて、連絡をして、一度練習を見に来てくださいと言うことで出かけて行ったのが高松市民文化センター。

長期療養をして大学を中退(正確には除籍。笑)し、この地に流れ着いた私の気分は『都落ち』。

当時166センチ、46キロのガリガリの文学部中途青年は、まったく知り合いも親戚もいない地で、『レクリエーションルーム』

ここまで書いて・・

そうか。

昨年32年ぶりにギターの人前演奏をはじめて。

ネットで人に教えてもらって見つけた、高松のアコースティックカフェ『slowstep』のギター練習会の日に、まったく知らない人ばかりのお店に突撃する時に開いたドア。

高松で初めて地元のひととの繋がりを持った劇団の稽古見学のために開いたドア。

21日、20数年ぶりに開くレクリエーションルームのドア。

ドアを開け続ける人生なんだなぁぁと、つくづく。

開けてみたいドアは、まだまだあるしなぁ(笑)(笑)(泣?)

さて21日のドアの向こうには、何があるのかな。っとぉ。


でも、大切なのは・・
51才の心を悩ますのは・・
メタボ気味の『小腹』が目立たない当日のコシチュームを考えること。
鏡の前でかなり長時間悩みまくりそうなんですよね。

ここまで読んでいただいた、あしたさぬきウォッチャーの皆さんへ!!

まったく知り合いがいなくても、ぜひ、一度、見学でもいいので21日、お越しください。

高松まつり「あしたさぬき連」第1回練習会

高松市民文化センター
レクリエーションルーム

一緒にドアを押してください。

きっと小心者なので、ドアの前で躊躇しながら佇んでいると思います。

一緒に、ドア、いかがですか?





と、ここまで書くと自分自身、逃げられないよなー

自分史。

2008年6月19日、岡山泊
  

Posted by rookie1957@ストリート at 17:27Comments(4)自分史

瀬戸大橋のボルト<自分史1988-89年>

2008年05月24日



写真は、1988年、瀬戸大橋開通記念式典において参列者の記念品として
坂出市が製作した、瀬戸大橋に使われている本物のボルトをオブジェ化した品です。

当時30歳を過ぎたばかりの私は式典に招待されたわけではありませんでしたが、
香川県の秘書課、観光課、坂出市の観光課の仕事をしていた事もあって、
縁あって私も頂戴することができました。

今年は瀬戸大橋開通20周年ということで様々な記念行事がありました。
その記念行事の報道を見ながら、その年の仕事についていくつかの事を思い起こしたので、
自分史の中に書き留めます。

1988年3月~1988年9月

■瀬戸大橋架橋記念博覧会「四国館」の映像オペレート管理という仕事


四国4県の共同出展の四国館のメインは、70mmフィルムのツイン映写による大画面3Dパノラマ映像。つまり、立体的に飛び出す、目の前に浮かんでいるように見える映像体験が売り物。

音楽は吉川洋一郎氏。
坂出市出身で当時、NHKスペシャル「地球大紀行」の壮大な音楽のコンポーザーとして有名な方。
監督は高知出身の黒木和雄氏。
美しい四国4県の四季折々の風景が見事に立体的に表現されていた。少しアンダーグラウンドな作風の監督と先端のツイン3D映像のマッチングが、不思議な雰囲気を醸し出していた。

企画制作・運営管理は地元の大手広告代理店。
当時私が努めていた会社はその会社と競合状態にあったが、
この案件に関して問い合わせがあり、私の会社が受けた。

通常の映画は35mmフィルム。その倍の大きさのスクリーンに、
2台の「70mm映写機」を同時に回して、映写するという映写方法。
この2台の70mm映写機が、クセモノ(笑)

まず、70mmのフィルムの重さ、ロールの大きさがタダものではない。加えて、2台のアナログ映写機どうしが「同じタイミング回る=同期する」仕組みは、デジタルではなく・・・・・2台の映写機のモーターが1本のパイプでつながっているだけ。

この2台の映写機と、フィルムにプリントしてある電子信号によって、
四国館内の照明と音響がコントロールされている。

私自身が映写機のオペレートができるわけではないけれど、その当時、私に持ちかけられる仕事は(今でも、その傾向はあるけれど)・・・とにかく、香川で初めての、とか。どうしたらよく分らないもの。
ややこしいものが、持ち込まれる。

私は課題を整理して、映写技師のチームをいくつか当たり、
70mmフィルムの映写経験がある映写技師なんてのは香川にいないのは当然で。
でも、技術者を説得してなだめて交渉して、6ヶ月間、毎日3~6回映写を繰り返すという仕事を受けてくれる映写技師を見つけて、博覧会開幕。
開幕当初は毎日通い続けたけれど、落ち着いてくるとほとんど行かなくなった。
自分が実際に手を施した仕事、というわけではないけれど、
博覧会の準備、橋の開通、半年間の博覧会、博覧会最後の日を体験できたことに感謝。

1988年12月
■「香川県置県百年記念式典」演出制作
■香川県置県百年記念式典」16台マルチスライド映像作品『ふりかえる100年~未来への100年』企画制作


瀬戸大橋が開通したその年は、明治時代の廃藩置県が行われてから100年が経過した年でもあり、1987から1989年には、日本各地で置県百年の式典が開催されていた。

私が当時在籍していた会社は、1985年頃から県や市の仕事を多くして来たチームだった。
置県百年の式典を計画していた県知事公室秘書課は、
「なんらかの理由」で私がいた会社を選び、その業務が委託された。

20年前の当時は、イベント、催事の実施にあたって今のような競争入札や企画コンペなどはほとんどなく、担当課が定められたルールのもとで発注先を決定していた。
談合や癒着の温床となる可能性はもちろんあるが、
ここ数年で数多く行われるようになった、
「不確かでいい加減な仕様書や指示書」による無意味で曖昧な入札やコンペよりは、
正しい催事の在り方を、打ち合わせをしながらじっくりと進めることができた面も多大にある。

香川県置県百年記念式典の中で上映される映像作品、
「ふりかえる100年、未来への100年」のシナリオ、映像構成、映像演出、音楽選曲、音楽編集、16台マルチスライド・プログラミング、制作進行を担当した。

香川にきて10年経っていない30代前半の一青年が、
古い県庁の広報課の倉庫の中のアルバムを1冊づつ開いて写真を探し、
香川県の100年の歩みを調べシナリオ化をするという、地道な作業をおこなった。

古い写真たちを並べ、キャプションを入れ、
100年の歩みを15分程度に収める。
300字詰め原稿用紙15枚に100年の歩みを。

オープニングとエンディングのCG画像のアニメーション化のプログラムは、当時の私の会社の社長が行い、
シナリオで描かれた歴史部分である本編のプログラムは私が担当した。

16台のスライド機1台1台に、「君は何秒後に点灯しはじめて、5秒たってフルになり、6秒間点灯していてその後、7秒かけてフェイドアウトする・・」てな指示を行うのが、マルチスライドのプログラム。

これもまた、かなり地道な作業。
仕事以外何の趣味も持っていなかった私は、寝る間を惜しんで仕事に没頭していた。
ただただ、いい作品をつくりたいと、自分のイメージに近づけるために、
自分が書いた文章を推敲し、自分のプログラミングしたデータでの映写機の動きを確認し、
修正し加工し推敲し、ということを繰り返して積み重ねてひとつの映像作品を創作していた。

いま、50歳を迎え管理職的な仕事も多く、後進を育てるという意味で敢えて「実作業」を行わない、
プロデューサー的な仕事のスタイルになっている私の現状からすると、
どれだけひとつひとつの仕事に集中し、真剣に取り組みこだわりを持って仕事をしていたのか。

この時代の仕事の積み重ねのおかげで、今の自分のノウハウと自信とポジションがあるんだろうなと、いつも、「あの時代の自分」に感謝している。

記念式典そのもの演出は私の上司である青木氏。
式典の本番では、私は舞台監督の仕事を担当した。

1989年3月
■「瀬戸大橋架橋推進協議会解散式映像作品 ~ 瀬戸大橋架橋推進30年の歩み~」

置県百年記念式典の映像の評判がよく、式典の次の年に開かれる瀬戸大橋架橋推進協議会の解散式典で上映する、架橋の取り組みの歴史を綴る映像作品の制作依頼が来た。

大久保諶之丞の有名な演説の挿話。
「塩飽諸島を橋台として山陽鉄道に架橋連結せしめば、常に風波の憂いなく、実に南来北向、東奔西走、瞬時を費さず。其国利民福、是より大なるはなし」(明治22年)

紫雲丸事故の挿話。

置県百年の映像制作に続いて、どっぷりと香川県の歴史を記録する現場に立ち会うこととなった。

1989年4月
■瀬戸大橋架橋記念碑除幕式~夢うつつ、霧の中の除幕式



瀬戸大橋が開通して1年後の記念の日、1989年4月10日(頃)、坂出の美しい公園「瀬戸大橋記念公園」にある記念館の西側に、架橋記念碑が建立されその除幕式を行った。

式典として演出がどうの、とか、企画制作、シナリオがどうだったというわけではなく、
この日のほんの1時間程度のできごとが強い印象とともに記憶に焼き付いている。

当日の出席者は、20人足らず。
元知事で、架橋推進にあたり大きな指導力・政治力・地から強い行政手腕を発揮した貢献者である金子正則氏、
当時の知事で、架橋については最後の集大成、締めくくりをした故平井城一氏。など。

式典の集合が8時半くらいで式典開始が9持頃ではなかったかと記憶している。

1989年4月10日の当日の朝は、坂出番の洲・記念公園沖の瀬戸内海は、
深い霧に包まれ、記念公園からも瀬戸大橋が見えないほどの状態だった。

三々五々集まる参列者は、口ぐちに霧の話題を話し・・・
やがて定刻が近づき、着席する参列者お皆さん。

主催者である故平井知事の挨拶が始まる。
当日の参列者全員の胸にあることがら・・・霧の中で修学旅行の学生を乗せたまま沈没した紫雲丸のこと。瀬戸大橋架橋建設推進のおおきなエポックとなったこの悲しい惨事のことに、この日の霧のことをまくら言葉として挨拶がはじまった。

主催者の挨拶のときだったか、
来賓の挨拶のときだったから、
序幕すべく、参列者が真っ白な幕が掛けられた記念碑の前に並んだ時だったか。

それまで深く霧に覆われていた真っ白な瀬戸内海。

すうっと視界が広がり始め

ゆっくりとでも確かに瀬戸大橋の橋げたが見え始め、

瀬戸内海を行き交う船と浪間が見え始めた。

白い布を序幕し、その記念碑の前で記念撮影を行う頃には背景一面青空と瀬戸内海が見渡せるほどに霧が晴れて、まったくいつもの瀬戸内海と変わらない風景がそこにあった。

なんという偶然。なんといる巡り合わせなんだろうと。

スタッフとして参列者後方に立っていた私は、目頭を熱くさせ、
よく覚えていないけれど、少し、涙が滲んでいたかも知れない。

歴史の一場面に遭遇した充実感を味わうことができた。

この後の10年間のどの間に、元金子知事と、元平井知事の県民追悼式の演出制作に携わることになるのも、また、歴史の巡り合わせの縁なのかと、今、思う。

歴代知事、市長の追悼式、市葬などを演出制作するようになった経緯の自分史は、また、後日。

瀬戸大橋開通にともなう、仕事としての自分史でした。  

Posted by rookie1957@ストリート at 17:08Comments(0)自分史

法事・お寺・お墓・家系

2008年05月21日


そうそう、わたしは、自分史を書こうとブログという場所にやって来た。
初心忘れるべからず。
初心に還ろう。


**********************************************

平成20年5月12日火曜日。
香川町の称讃寺で法事を持った。

祖父の50回忌と併せて、祖母22回忌ながら一緒にお参りをした。

集まったのはごくごく最小限の、祖父祖母のこどもたち。

私の父、77歳。父の姉ふたり、79歳と81歳。
79歳の叔母の旦那様、義理の叔父。

わたしの生まれ故郷は広島県尾道市。
姉ふたりは嫁いで尾道から離れ、
この度も79歳の叔母は尾道のとなりまちの三原市から。
81歳の叔母は、栃木県から遠路はるばる来県。

前日に高松入りをしてホテルに宿泊。
シンボルタワー29階の中村孝明で会食をした。
6時半からの平均年齢がかなり高い会食は、
ゆったりとした時間が流れていた。

3人の姉弟が一堂に会するのは、数10年ぶりとなる。

81歳の叔母は、静かに話す。
「今回、ね。こうやって3人が揃ってお参りするのも、もう最後だと思って・・」

77歳の父は
「100歳までみんなで生きて、また、集まろう・・」と。

長女である81歳の叔母は私の手を取って、しっかりと眼を見つめて話す。
「これからは、◎◎ちゃん、あんたが△△家を守ることになるんよ。よろしくね。」

***********

40歳を過ぎた頃から、いろいろな葬儀や法事に出かけることが多くなり、
それまで深く考えたことがなかった事柄・・・
「家」ということ、お墓の存在、法事の意味、家族、家系、お寺さんって?・・・・
そんなことが避けて通れない、特別のものではなくごく普通にきちんと向き合うべき事柄なんだと、少しづつ思うようになって行った。

***********

わたしの△△家のお墓は尾道にあった。
それを昨年、父の決断で、すべてこの香川の地に移した。
お寺さんも、それまでは父がこの香川に住み着いた最初のまち、丸亀のお寺さんにお願いしていたけれど、香川町のお寺さんを紹介いただき、縁あって檀家となった。

つまり、私が生まれた尾道には、ひとつの「△△家」の実家もお墓がなくなった。

さぬきの地を第2のふるさととして、私の父と私が住み着き、
結婚をして子供ができ、さぬきの「△△家」がはじまった。

***********

私には二つ年上の兄がいて、二人兄弟だった。
富山に住んでいたその兄は、9年前に4年間に亘って手術と入退院を繰り返し、
直腸癌が線維癌として全身に転移し亡くなった。

***********

生まれ育った土地ではない地での暮らし。
兄弟も今はなく、父とふたり。
もちろん妻がいてこどもがふたり、元気に暮らしている。
特別な境遇でもないけれど、孤独感がいつも心の片隅にあって、
「旅の途中の浮遊感」をいつも感じている。

***********

シンボルタワーの29階、夕方6時半。
海と山と島の中に沈む夕陽のあまりの美しさに、
77歳、79歳、81歳の年老いた姉弟は感嘆しはしゃぎ、
同席したわたしの20歳の娘と写真を撮り合った。

81歳の長女の叔母は生ビールを2杯。元気である。
自分の親の50回忌のお参りができるということは・・
祖父は早くに亡くなったということになる。

昭和30年代初頭では珍しかった交通事故とのこと。
その当時の話を父がはじめる。
細かく話をして、私も初めて聞く具体的なその事故の様子だったけれど、
ふたりの叔母も、「へぇ、そうだったん。そんなの初めて聞いたなぁ・・」などなど。
思いがけない話題、3人の姉弟は、きっと、久しぶりに子供の頃の心持ちに還っていたのでは・・。

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法事の当日、お寺さんでの参りが終わってお昼頃外を見ると、あいにくの雨。
栗林公園と屋島に行って写真を撮ろうと意気込んでいた写真マニアの父は少しがっかりな様子だった。

お寺さんから屋島に向かい、屋島山上まで行くも、
足元も少しおぼつかなくなりはじめた77、79、81歳の集団。
雨の中を展望台までも歩くことはならず、休憩所で座って一服。

お昼ごはんをわら屋の釜上げを食して、高松駅へ。

控え目に手を握ったり、肩を抱き合って、お別れ。

遠路、さぬきまでやって来た79歳の叔母夫婦と81歳の叔母と、
そして「スープの冷めない距離」に住む77歳の父と過ごした緩やかな一泊二日。

そうなんだな。△△家は、わたしが・・・・。
そういうことに、なるんだな。

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来月51歳を迎えるわたしは、
お寺さんと地域のひとたちの結びつき。
地の縁と血の繫がり。
仏事の持つ意味。
お参りをするということ。

そういうことに、この年でやっと気付き始め知り始めたばかり。

自分史としての、平成20年5月12日。

法事の場所の写真を、お寺のホームページから借用させていただきました。
称讃寺 http://www.syousanji.com/ 
父が入っている老人会の会長さんのご紹介で決めたお寺さんでしたが、
ホームページでいろいろな活動を紹介しているお寺さんでした。
これもご縁だなぁと。
  

Posted by rookie1957@ストリート at 07:19Comments(0)

自分史・・10年の年月を経て・・・

2008年04月18日

平日休みを満喫していた2008年の4月17日の夕方。

あしたさぬき経由で、一通のメールが来ていた。

【件名】お久しぶりです!

【メッセージ】
 1998年の「あしたさぬき。ニナレ」、レオマ・ワールドのイベント等でアレンジさせていただいた内堀です。ネットサーフィン中、偶然ここにたどり着きました。その節は大変お世話になり、ありがとうございました。
 
 「あしたさぬき。ニナレ」が児童合唱団に唄われている動画を見ました。とても感動的でした。もうあれから10年も経っているのですね。
 
 当時レオマでトランペットを吹いていた◎◎さん、坂出在住の「SKG」の△△さん達とは、いまでもおつき合いをさせていただいていますし、コンサートのゲストによばれて、何度も丸亀、多度津、高知へ行っております。
 
 あまりの懐かしさでメールしてしまいましたが、何を書いてよいのやら。またいつかお会い出来る事を楽しみにしております。

内堀


⇒10年前、舞台作品のテーマソングとしてHOUSEが作曲した「あしたさぬき。ニナレ」を、
フルブラスバンドと4部合唱用に編曲をお願いした、東京のアレンジャー、内堀氏からでした。

内堀氏とは、その前に、レオマワールドが開園する折に、
私の前々職で仕事を依頼していました。

開園時、レオマワールドには「キンダーガーデンステージ」と「ストリートガーデンステージ」という二つのステージが計画されており、
「キンダーガーデンステージ」では、ぺディとポーリーの着ぐるみが登場するショー。
「ストリートガーデンステージ」では、7ピースの生バンドと11人のダンサーによる、
セリフなしのダンスレビューショーを毎日2~3ステージを行う計画でした。

私は当時の上司と、レオマワールドが開園する2年くらい前からレオマワールドに通い、
「ストリートガーデンステージ」の企画・演出・制作を獲得し、制作担当していました。

開園から1年間は、私の上司が企画・演出した作品のディレクターとして、そして開園2年目のリニューアルでは、私の作品として企画・演出・制作をし、1年半の間、ロングランされました。

当時、すべての作品の編曲をお願いしていたのが、内堀氏。

その縁があり、「あしたさぬき。ニナレ」の舞台制作の折、すぐに内堀氏に連絡をし、
フォークデュオ「HOUSE」が吹き込んだラフなサンプル音源を東京に送り、
フル吹奏楽と4部合唱曲用にアレンジしていただき、フルスコアをつくっていただきました。

インターネットか広まり、自分の名前を検索したことがある方も多いはずです。

今回、10年近くの年月を経て、インターネットを経由して再びお世話になった方に巡り会う。

そんな出来事に、感謝です。

ちなみに、私が respect しているあしたさぬきの人気ブロガー風に表現すると(笑)・・・・

「久しぶりに平日のお休みをとって、気分転換をしようとしていた私に、
神様がプレゼントしてくださった、小さな"ハプニング”かも知れませんね。
インターネットの"出会い”も、変なものばかりじゃありません。
さあ、これで私もあしたに向かって、GO!な気持ちになれました。
あしたさぬきさん、インターネットの検索さん?!ありがとう!」

でしょうか・・・・・。

  

Posted by rookie1957@ストリート at 06:48Comments(3)自分史

動画記録:「あしたさぬき。ニナレ」原曲風

2008年03月27日

久しぶりですが、こうして不定期に、

また、年代も交錯しながら自分史を書き溜めて行きます。


2008年3月15日(土)の出来事

<rookie"カミングアウト"ライブ出演 at 海人>の動画データをもらった。

当日のレポートの詳細は記録ブログをご覧ください 

⇒ ライブ総括・・家人のひとこと(追加)


では、まず<「あしたさぬき。ニナレ」音源と動画記録のまとめ>

このブログサイト「あしたさぬき.JP」のタイトルの源であり、

TOPページの「あした機能」のコンセプトの源流でもある楽曲「あしたさぬき。ニナレ」

楽譜が公開されると、まず、るいまま組が、メロディを音源化

楽譜を音源化⇒「あしたさぬき。ニナレ 編曲してみた」

さらに分かりやすく改良 ⇒「あしたさぬき。ニナレ2007~るいまま組アレンジ・ヴァージョン」

もっと分かりやすい音源をと、るいまま&セバスティアーノが作曲者のHOUSEメンバーに会いに行きました。

「あしたさぬき。ニナレ 今城くんと歌ってみた。」

そして、遂に2月11日、セバスティアーノ氏音楽指導・指揮によって、

さぬきジュニアコーラス演奏が実現。

⇒ 「さぬきジュニアコーラスの歌う【あしたさぬき。ニナレ】動画公開」


これで、沈静化?すると思われていた「あしたさぬき。ニナレ」10年振り再演騒動(?)ですが・・・

なんと、3月になって、見知らぬ?あしたさぬきブロガーが、音源化の取り組みをシリーズで?公開。

ブログタイトルは「n@zukiの四畳半日記」

★3月9日午前3時 ⇒ 【うたってみた】あしたさぬき。ニナレ ていくぜろ

オモシロイ、じゃないっすか。

★さらに、9日の夜9時に続編 ⇒ 【不定期】あしたさぬき。ニナレ 音源製作記 そのいち

おおおお、そうなるの、か・・・面白い。

★続いて3月11日に、待ってました! ⇒ 【不定期】あしたさぬき。ニナレ 音源製作記 そのに

★3月19日、閑話休題、ってところでしょうか⇒ 音源製作記【番外編】Vocaloidに遊ばれて

いやぁあ、楽しんでもらってますね、楽曲を。嬉しい。


引き続き、のんびり、マイペースで続けていただきたいですね。

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さて、3月15日のライブでの出来事。

rookieのライブの案内を、「あしたさぬき。ニナレ」作曲者のHOUSEのひとり、フルカワ氏にもした。

当日、来てくれるかどうかは、半々かな、という気持ちでいましたが・・

来てくれました。

そして、ひととおりのステージが終わって、深夜・未明のライブハウスらしい「セッション」な雰囲気が充満しはじめた頃に・・

フルカワ氏を知るひとたちから、「なんか、やってよーーー」「やれ、よ!」との声、行き交う。

で、わたくし、遂に「るいまま、『あしたさぬき。ニナレ』やるぞ!」と立ち上がりました。

こうなるかも知れないという「最良のストーリー」に備えて、

ギターコード付き歌詞カード(HOUSE作成のコピー)を多数持参していた私は、

それをフルカワ氏とるいままに渡してステージへ。

で、フルカワ氏、渋々?(でも、もちゃくちゃ楽しそうだったけどね。笑)、ステージに登場。

わたしの横にHOUSE・フルカワ氏。

HOUSEというコンポーザー、演奏者、パフォーマーが大好きで、尊敬しているミーハーな私としては、

”浮かれ気分満載”状態。

で、フルカワ氏が人生初の『ひとりHOUSE』、はじめる。

記念すべき1曲目が、正調「あしたさぬき。ニナレ」。

静かにアルペジオで始まるも・・・

私の拙い&酔っ払いギターも加わり・・・

気分がノリノリで、この楽曲と「あししたさぬき.JP」の繋がりを深く理解し、

わたしとの交流も長い”シンガーるいまま”が、

時には歌詞を、時にはスキャット、時にはソウルフル・ハイトーン!で、加わり・・・

で、その様子です。

3月15日(土)24時くらいでしょうか・・・

HOUSE作曲「あしたさぬき。ニナレ」原曲風(後半)

携帯動画で撮影してくれた、INO氏に感謝、です。


携帯動画の画質と音質で、良かったなぁと。臨場感だけ、味わっていただければと思います。

映像には映っていないですが、バックで聞こえるハイトーンが、るいままです。

わたしはマイクから離れて、あくまでもフルカワ氏のバックとして、時折、歌っています。



それでは、自分史;2008年3月15日深夜・・わたしは、こうして、ここに居ました。






しかし、これは、ステージではなく、客席で聞きたかったよな!と実感した今日この頃でした・・・

そして、2008年3月30日にe-とぴあで、

また新しい解釈・アレンジの「あしたさぬき。ニナレ」が

ピアノ、ベース&ギターが加わったバンドサウンドで演奏されます。

ぜひ、お出かけください。30日の日曜日は、サンポートへ。

詳しくは ⇒ 「eとぴあ 米田優&るいまま組コンサート」  

Posted by rookie1957@ストリート at 04:33Comments(0)